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ヤジロベーダ バラモン教

2021/5/26
ブラフマーンナ文献の思想的特質
ブラーフマナ時代(およそ紀元前900年 - 紀元前500年の間)
バラモン至上祭祀絶対
 インドの独特な思想であった。神が人の操り人形となった。神を道具として考えることが特徴であった。
 祭祀が重要視されるようになったのは、なぜか。
 祭祀は宗教的な儀礼である。
 形式を重視している。日本神道
 自然=神々をコントロールしようとした結果として、儀式を重んじることを試みた。時として自然を結果的にコントロールしたこともあり、人々はその時々に錯覚し、祭祀を神格化してしまったのかもしれない。必ずしも絶対的な力があったわけではないところに、問題点があったといえる。
 <自分の見解>
苦しみから解放されることを求めるということは、動物本来にインプットされている、「痛みを避けて快楽を得る」ということに他ならないと解釈している。日本の義務教育において、入学式・卒業式などの式というのは、いわゆる祭祀の一つだといえるかもしれない。入学するまでの苦しみから解放される入学式、卒業するまでの苦しみから解放される卒業式など、苦しみから解放されても、また新しい苦しみがやってくるものである。儀式がいくつあっても足りないということに気づかなかったのだろうか。私は、この授業の感想や見解をまとめるのはまったく苦しみだと思わないが、提出しおわったあとの解放時に、祭祀的行為を行うことで、当時のバラモンの気持ちになれるかもしれないとふと思った。例えば、飲み会の時の乾杯の挨拶なども、あれも一種の祭祀であり、のどが渇いて早くビールが飲みたいという苦しみから解放される儀式という位置づけになるのではないか。バラモン教の祭祀はいたるところに存在しているかもしれないことに気づく。何かの行為をすると結果が表れるのであるが、その行為事体を神格化してしまったのが、ブラフマーな時代の特徴と癇癪している。約400年も儀式にとらわれて、堅苦しい時代だったのかと、さぞお困りの時代だったのだろうと想像していることろである。ベーダの中でもヤジロベーだがあるが、これは、ドラゴンボールのヤジロベーというキャラクターを思い浮かべた。名古屋弁で、癖の強いキャラクターだった気がする。ピンチになると助けにくる、普段はでくの坊であるが、活躍することあり、憎めない性格の持ち主であった。これがヤジロベーダと関係があるのかは、わからないが、【ヤジュスとは、祭式の効力が現れる事を祈って、神格や祭具、供物などに一定の行作と共に呼びかける言葉で、多くは散文で書かれている。祭式の作法や供物の献呈方法など祭式の実務が詠まれている。 】wikiペディアで調べても、何ら関係が無いことが分かった。
 以上(約1,114文字)

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