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僕が僕であるためにnoteを書く

2019年から使い始めたnote。

散歩や旅、訪れた先々でのスナップショットに合わせて詩のように言葉を綴り、詩やエッセイを書き始めた・・・が、気まぐれにnoteに向かっていたのでポツポツとしか書いていない。最近、友人がnotoを始めたので久しぶりに自分のnoteを開いた。「へ〜」「ふ〜ん」「いいじゃないか!」僕が綴った言葉に僕が感嘆する。また無性に“言葉”を書きたくなってきた。

日記は記録、noteは想い

子供の頃から新年や誕生日を迎えるたび、何度か日記や手帳に書き込むことにトライしてきたけれど、都度三日坊主に終わる。まだnoteの方がましだ。何が違うのかなぁ。そうだ!日記や手帳は記録なんだ‼︎その日、何があったのか、いつ何があるのか、題名を記してあるだけで中身がない、その時がない。中身というのは想い、即ちその時動いた心模様や感情。僕が僕であることの証。

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4時から5時に起き、福丸(愛犬)と散歩する。土砂降りでも吹雪でも。コーヒーミルをぐるぐると回してフレンチプレスを淹れる毎朝のルーティン。散歩中もモーニングコーヒーを飲んでる時も思考や感情は動き、想いは湧き立ち、留めたつもりがいつの間にか記憶から消えていく。これは忘れないようにって思っても思い出せないフレーズも加齢と共に増えてきた。思っただけでは残せないなら、書き綴れば良い。僕にとってのnoteの役割はこれなんだ!誰かに読んでもらいたいとか、格好いい文章を書こうとかそんな色気もちらほらあるけれど、誰かの前に自分自身、僕が僕であるために書く言葉。それが僕のnote。その時々の等身大の自分。

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