見出し画像

ハブと戦った話。

相変わらずとても長い記事なのでお時間あるときに読んでください。2016年って3年も前の話なんすね。

2016年12月13日の記事------

僕は文章を書くときはいつも本題とは関係のない話から入りがちではあるのだけど、今日も例に洩れず小話からひとつ。(小話という量では無い)

僕はツギハギだらけのボロボロのズボンをよく穿いている。

僕というか、周りの友達が割と穿いている人が多いので、直接的な知り合いは見たことがあるかもしれない。

(僕がやっているバンド"アルカシルカ"のメンバーもいつも履いてる。あとこの写真僕がゴリラみたいに写ってるので載せるのためらった。)

汚いとか、お金がないのだろうかと色々思っている人もいるかもしれないが、あれは、いわゆるクラストパンツというもので、通称"ボロ"などとも呼ばれているだけあって、あんまり洗濯もしないので汚いのは間違いない。昔の百姓が着ていた野良着に似ているかもしれない。

(写真は野良着。襤褸と書いて「ぼろ」や「らんる」とも呼ばれる。)

クラストパンツは、パンクの人や一部のスケーターなどが穿いているが、あのズボンは別に売っているものではなく、大概が自分たちでチマチマと裁縫して作っているものが大半である。各々が好きなバンドの布パッチや古布を張り合わせたりして、縫い方や使っている糸の色などそれぞれこだわりがあり、それ一着でその人の個性が現れるのが面白い。
職人気質の玄人になると、味わい深さを出すために土に数か月埋めたりする全く理解できないレベルのダメージ加工を行う人も多くいる。

そもそもクラスパンツとは、クラストコアというジャンルの人たちから派生したもので、クラストの人たちは"ストレートエッジ"の人たちと同じくらいに硬派な思想を持っている人が多く、このズボンはその一種の意思表示的なアイコンとしても捉えられがちである。そのため、このズボンを穿いていると、ある程度のリスクが付きまとう。

クラストバンドの多くは、政治的、社会的な関心が高く、また動物愛護の精神が強い人が多い。
そのため、彼らと似たような格好をしていると、ベジタリアン(肉だけ食べない)やヴィーガン(魚介や卵など動物性のものも一切摂らない)に間違われることもあるし、革製のブーツやジャケットを着ていると「クラスティーじゃないの?」みたいな顔をされる事もある。

ただ、僕の場合、というか僕の周りの沖縄の人たちは主義主張があってこのズボンを穿いている人は少ない(当然ルーツやリスペクトはある)。
ただ単純にモノを大事にしている人や、愛着があるものを身に着けたい人ばかりではないかと思う。

僕の場合、一度ズボンを買うと、寝る時まで四六時中ずっと同じものを穿き続けるので、半年ほどで色んなところが破れてくるし、日焼けや汚れでひどいことになってくる。
そのため、破れた部分や、作業中にインクで汚れた部分などを別の布で塞いでいった結果、出来上がったものになっているので、自発的に破ったり汚くしてるわけではない。
ただ、元々のだらしない性格のおかげで縫い目は荒く、あまり手直しもしせず、ヒマな人にお願いして直してもらったりもするけど、どんどん破れて最終的には僕のものはハーフパンツになる。

ちなみに余談だが、パンクの知識が無い人のために先ほどちらっと出てきたストレートエッジという言葉にも触れておこうと思う。

ストレートエッジとは『タバコやドラッグはいらない』『アルコールを摂取しない』『快楽目的のみのセックスをしない』といった信条を歌ったアメリカのハードコアパンクバンドMINOR THREATのイアンマッケイにより提唱されたライフスタイルで、手の甲にバツ印を書くのがシンボルになっている。

ちなみに、これはあくまで自己節制のひとつであり、他人に押し付けるものではないが、教義的に捉えた一部のファンが大暴走。酒を呑んでる客を殴りつけたりする人たちが現れ、イアンマッケイも困っているという話は有名。
ちなみに、思想の強さからクラストとストレートエッジが混同される事もあるが、別ものである。

そんな感じで前置きに謎のパンク豆知識を書いてしまったのだけど、そろそろ本題へ入ろうかと思う。

以前にも書いたような気がするし書いてない気もするのだけど、僕はPOGOTOWNという建物の中で細々とデザイン業をしている。(2019年現在は主にNEO POGOTOWという新しいスペースにいる)

このPOGOTOWNは一軒家で、その建物の元々の家主(齢80歳/躁鬱病)から自給1000円出すからバイトしてくれと言われ、そのじいさんが持っている建物や土地の片付けや草刈りをよく手伝っている。

最近は、持て余している建物を人に売りたいという事でゴミ屋敷と化した一軒家を片付け、草刈りをし、ペンキを塗り替え、木戸をアルミ戸に替え、左官工事をしまくって、人が住める環境整備を行う日々を送っている。

DIY能力が日々高まっていく中、じいさんからの小言も適度にスルーしながら作業をしているのだけど、最初、出会ったときは鬱の真っ最中ですぐにでもポックリいきそうな状態だったのに、最近は躁状態が強めに出ており、あと10年は生きるんじゃないかというアクティブぶりで、本当にとんでもない。

僕は躁鬱病(双極性障害)の躁状態とは、元気でやる気に溢れているとても良い状態だと思っていたのだけど、そういう事でなく、とにかく感情の起伏が激しいのだ。
一分前までニコニコしてると思ってたら、ひとつ気に食わない事があると大激怒が始まる。

先日は、ゴミの処分場に行くとき道を間違え、ウロウロしてる間に営業時間を過ぎていた。
着いたころには当然ゴミ処理場は閉まっているのだが、そこで突然プッツン。

事業所の電話番号に電話して「私は営業時間内に本当は着いてた!道に迷ったから遅れただけだ!!早く開けなさい!」と、喚き散らしている。

あまりに横暴である。

爺さん「なんで、営業時間がこの時間なんだ!持ってきたゴミをここの前に置いてもう帰るぞ!」

と、看板をバンバン蹴りながらずっと激高している姿を眺めながら、理屈が通じるような状態とは言えないので、僕はとりあえず爺さんが一度落ち着くのを待った。電話対応している人には本当に申し訳ないけども。

「世の中には様々な迷惑なクレーマーがいると聞くが、ここまで理不尽なものだとしたら、全員この爺さんと同じような病気なんじゃないだろうか」

そう思うと、少しだけ世の不条理が許せそうになるが、いやいや、自分が傷ついているからと言って人まで巻き込むのは不幸の総数が増えるので良くない。

というか、病気どうこうは置いておいて、この爺さん自体元々の性格が歪んでいるのもある…。

本当に偶然なのだが、驚くべきことにこの爺さんは、ウチのじいちゃんとばあちゃんの中学からの同級生らしく、最初にそれが発覚したとき、ばあちゃんに「あの爺さんはどんな人か?」と聞いたら、苦い顔をしながら「欲深い人だよ。強欲だから信用しちゃいけない」と言われ、ウチのじいちゃんとばあちゃんが付き合っているときにばあちゃんに対して、金をチラつかせたり、しつこくデートに誘ったりと二人の仲を裂こうとしたという聞きたくない話を聞かされた。まあ、全くなびかなかったらしいけども。

そんな、ばあちゃんの眼は確かなもので、この爺さんはとにかく物やお金など物質的なものに執着する。
そのせいで家がゴミ屋敷のようにもなっていたのだ。
誰がどう見ても明らかにゴミだと認識するものを僕が捨てようとしても、「まだ使えるかもしれないのに捨てるな!」と怒りだしたりするし、自分の予定通りに事が運ばないと鬱にもなって何もしなくなるし、怒りが頂点に達するとどこで覚えてきたのか「サノヴァビッチ」という汚い言葉を吐くしで、片付けの作業が本当に進まず大変であった。

それでも、なんとか作業は大詰め。どうにか人が住める状態へとなってきたところで事件が起きた。

あれはまさに昨日の事である。

家の庭の片隅で爺さんが必死の形相で老人には似合わない激しいステップを踏んでいる。

なんだ、どうしたのだと僕が近づいていくと、よく見るとダンスではなく爺さんがモリのようなものを持って何かと戦っているのだ。

さらに僕が近づくと

「ハブっ!!ハブっっ!!ハブぅう!!!」

と叫んでいる。

そう、爺さんは突然現れた猛毒を持つヘビ科のあいつと戦闘の最中だった。

"爺さんの攻撃" ミス!

"ハブの反撃" ミス!

”爺さんの攻撃” ミス!

"ハブの反撃" ミス!

みたいなRPGゲームのファイナルファンタジーのバトル画面を彷彿させるようなシチュエーションが繰り広げられていた。
僕は、すぐに爺さんを助けに入れば良かったものの、その状況があまりに面白かったのでつい棒立ちになって眺めてしまった。

それぞれのターンでお互いミスを連発するも、遂に爺さんの一撃がハブを捕らえ、そこから二刀流に持ち替えた爺さんがスコップで怒涛の滅多打ちを喰らわせハブの息の根を止めたのだった。

しかし、敵は一体ではなかった。
新たなるハブが現れ、先ほどと同じような攻防を繰り広げる爺さんとハブ。

またもや、連打の末モリで体を貫く爺さん。

そして、よりによって僕を呼び出し、最後の止めを刺せと言うのだ。

「なんの儀式だよ!さっきみたいに二刀流に持ち替えて自分でやれよ!っていうか、生け捕りにしてどっかに離してやろうよ!」みたいな事を言いたいけど、生け捕りにする道具もないし、このまま逃がしても、今後作業中に敵から復讐される可能性もある。正直、それは怖い。僕は毒を持っている生物がとても苦手なのだ。

冒頭で述べたように僕はクラスティーではないので肉は食べるし、革のブーツも履く。
しかし、元々無益な殺生はしたくないし、食材を無駄にするこの飽食時代には違和感を覚える。
でも、僕が葬らなくてもどうせ爺さんがあの命中率の悪い攻撃で連打して苦しめながらハブを殺す。
僕はしぶしぶスコップで相手のクビを切り落とす事にした。

なるべく苦しまないように、ためらわずに一息でと思ったものの、蛇の体は強くしなやかで、簡単には切断する事が出来なかった。
何度刺してもハブは死ぬこともなく、苦しみながらもずっと抵抗してこちらを殺しに来ようとするその姿に僕はいたたまれなさと同時に畏怖の念を抱いた。

どんなに傷ついてもなんとしても生きようとする生命力と、生きられずとも自分をここまでの目に合わせた人間を刺し違えてでも殺すというような狂気じみたものを感じたのだ。

なぜ、マムシ酒やハブ酒など、ヘビを漬けた酒が滋養強壮になるのか。という話を聞いたことがあるだろうか?

ヘビは元々生命力の強い生き物で、生きたまま酒の中に密閉することで、その苦しみや憎悪を感じながらも死ぬまで生きようともがく執念が生命力となって酒に溶け込んでいるから、精力になると言う。

その話がまんざら迷信でもないような、死の間際まで生にしがみつこうとしているそのハブの執念を目の当たりにして僕は様々な感情が押し寄せてきた。

先日、とある知人が亡くなった。
死因は不明だと言われ、告別式の前夜、友人と話をしていた。

「状況的に自殺の可能性が高そうなので、俺は行くのやめておきます。」

友人は、もし自分が自殺した立場であれば誰にも葬式に来て欲しくないからと言い、僕は、死因や死んだ人の感情はさておき一番大事なのは生きてる人たちの気持ちだから、残された人たちのために俺は行くという話しをした。

ものすごく簡潔に省いたけど、そのとき、友人とは死を選ぶほどの覚悟についてなど多くの死生観について話していた。

でも昨日、僕はそのハブの"死"を見て、対極であるはずの"生"を感じざるにはいられなかった。

ああ、そうか。
根本的な事を忘れていた。

自殺する人たちは、死にたいから死んでいったんじゃないや。

生きてられないから死ぬしかなかったんだ。

これは似てるようだけど全然違う。
死ぬ以外の選択肢が別に見えていたのなら死ぬ人間なんていない。きっと本能がそうさせないはずだと僕は感じた。

それ以外の沢山の感情がグルグルグルグルとしながらも、なんとなく、ちゃんと生きていこうと思った日だった。

ただ、爺さんはつい一時間前まで「歳を取るとアリンコ一匹殺すのも気が引ける」と言ってたのに、鬼の首を取ったような態度で、誇らしげにハブを殺してやったっと狂喜していた。

この人は死なない程度に咬まれてちょっと慎ましくなるくらいが丁度良かった気がする。

追記------
その後、じいさんからは山の開墾の手伝いを頼まれ、操縦したこともないショベルカーを操り、山に道を作ったりしながら4トントラックと一緒に崖から落ちるなど散々な目に遭い、新たな死生観を身につけるのはまた別の話である。

サポートしてくれたお金は僕のおやつ代に充てられます。おやつ代が貯まるとやる気がみなぎるかもしれません。