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文学と出会った僕らは~金子光晴「どくろ杯」
先日読んだ小説に、とてもよいフレーズがあったので、
共有させていただこうと思います。
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読んだ小説は金子光晴『どくろ杯』(1971年単行本発行)
名前からもう、心惹かれるものがありますよね。
詩人・金子光晴の上海行きを描いたエッセイです。
…という紹介をすると、紀行文のように思いますが、
単なる旅日記にとどまらない所に、この小説のおもしろさがあります。
旅路を共にする女とのもつれた感情、
路地裏の暗く淀んだ空気のなかでの生活。
それらが含みに富んだ詩的な表現で描き出されていきます。
今回引用したのは物語冒頭「発端」の章から。
上海に渡る前、生活と愛欲に悩む日々を吐露する描写です。
花々だけが人生で、みのりや葉の繫りが絶望的な煩わしさとしか考えられない耽美主義から、ぬけ出しきれないじぶんが、まともな世のなかを折合ってゆけない生れそこないのようにおもえた。
恋人と会って、手をふれあうのがせいぜいの気の弱いデートをしながら、別れての帰りに私娼窟に立寄って、恋人で搔き立てられたセックスを処理し、ほっとするという男の話のように、私たちの時代の少年は、なにごとにつけて、今日の人たちのように逞しく割切ることができないで、プラトニックラブをえがきながら、娼家の軒先をつたいあるくことは似ていて、ただその霊肉二面の矛盾に苦しんだり悩んだりしたものだ。
そのことは、ややこしいことにはちがいなかったがそれを教えたあいては古来文学さんで、文学の手ごとが入らなければもっと簡単に男女のことは成熟したにちがいない。
「プラトニックラブをえがきながら、娼家の軒先をつたいあるく」
肉欲と精神の関係に悩み、
どっちつかずのまま、ずるずると過ぎゆく我が愛苦の日々……。
文学との出会いは、良くも悪くも私たちを
「逞しく割切ることができない」人間に育ててしまう。
文学を愛するものとして、深く心に刺さる言葉です。
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そういば、生活が変わってしまうような、脳天に衝撃が走るような文学体験が、ここ最近少なくなったように思います。十代の頃の鋭敏な神経を失ったせいでしょうか。それとも、知らず知らずのうちに好みが変わっていて、今の系統に満足できなくなったのでしょうか。
金子光晴を読んだのはこれが初めて。
次は「どくろ杯」のなかにも登場した
詩集『こがね蟲』なども読んでみたいと思います。
読書が広がっていくのは楽しいですね。
この夏は冷房の効いた図書館に避難して、
じっくりと本に向き合いたいと思います。
end.
P.S. バナーの写真は、先日古本屋さんから届いた段ボール箱にあったサイン(?)です。もれなく全てのゼロのなかにお顔が描かれていました笑。遊び心のある梱包にほっこりしました。東京の水たま書店さん、ありがとうございました。
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