見出し画像

ぼこぼこ

これはとある男性の体験談をもとに作成したお話です。

 男は住宅地を帰路についていた。いくつかの道路灯は故障により光を失っていたが、彼の顔は常にスマートフォンで照らされていた。黒いマスクをつけた痩身の男で、上下の服をユニクロで揃えている。彼は「アイドル ディープフェイク」と検索窓に打ち込んでいた。

 黙々とアスファルトを歩く男の前方から、英国紳士の格好をした老人がやってきた。黒いトップハット、丈の長いスーツジャケット、傘のように持ち手の曲がったステッキ。イングリッシュの髭。背は高く、痩せすぎていない。老人は男との直線上をぐんぐん歩く。

 男は老人を避ける選択を迫られる。老人の左脇を通るそのときだった。
「ぐふっ」
 男の低いうめき声が、夜の張った空気に響いた。老人の紳士は、男が通り過ぎる瞬間、彼の腹を左フックでえぐっていた。
「え、おえぅっ」
 男はじぶんが受けた暴力にいまだ気づいていない。息苦しさに気づき、マスクを外した。スマートフォンの電源ボタンをタップし、老人に向き直ってようやく、彼は殴られたことを知った。老人は黙っていた。

「え、なんでっすか」
 男は乏しい声で言った。唾が口の端を流れた。痛みが徐々に強くなる。男の背は紳士よりもわずかに高かったが、男が腹を抱えるいま、その差は反転していた。紳士は男を見下ろし、髭を右手でさわった。直後、男の鼻に、紳士の二本指が侵入した。

「あ、いた、いたいとかじゃない、なに」
 紳士が指を引き抜くと、男の鼻から、手持ち花火の火花のように血が噴出した。
「うわ、これおかしい」
 紳士はじぶんの指についた血をハンケチで拭い、男に歩み寄る。男は後退りする。
「いやほんとなんすか。こわいこわいぁなに。たすけて」

 男は襟元を鼻まで引き上げ、血を止める努力をした。だが、紳士の攻撃は、鼻の粘膜と肉と骨を、短時間の修復が不可能なほど破壊していた。男は紳士に背を向け、走り出した。紳士は歩くのみだった。

 男は公園にたどり着いた。すべり台にもたれ、警察に電話をかけた。ワンコール。ツーコール。女性が出た。
「すみません、暴行されました。はやく来てください」
「何の話ですか?」
「は、いや、警察ですよね」
「はい、110番です」
「暴力を受けたんです。年配の人に。住所言えばいいですか」
「そうですか」
 硬いものが硬いものを叩く音が聞こえた。男は紳士のステッキだとすぐわかった。
「もういいです」
 男は電話を切った。小さな公園の出口を抜け、紳士の方角を探った。右を見た。左を見た。紳士が立っていた。
「ぎゅっぎゃっ」
 男はうさぎが甘えるような声を出した。紳士がステッキの底で男の喉を突いたからだった。

 男はうつむいたまま、目を見開いていた。喉を強く押さえることで痛みが引くことを願っていた。紳士は、彼の側頭部に右足の甲を勢いよくぶつけた。
「いぃん」
 蹴られた男は地面に転がった。手のひらに小石が刺さり皮膚を突き破った。
「もぉうやだよ、おれ。なにこれ」

 紳士は男の腹を蹴り上げ、仰向けにした。紳士はゆっくりと男の胸部にまたがった。肋骨が古いドアのようにきしんだ。
「ぐーん、おもい」
 男は紳士の体に手を伸ばそうとしたが、両腕とも、紳士の足に踏みつけられた。紳士は男の顔にふれ、撫でた。そして睫毛を抜いた。
「あぅん」
 抜かれるたび、男の薄いまぶたはぎりぎりと引っ張られた。首を前に出すが、紳士は額を押さえ、睫毛を抜く仕事をまっとうした。男の右目から毛が消えた。血が目に入り、しぱしぱと瞬きをした。
「どっきりですか」

 紳士は男の上から退き、顔の横に座った。男の頭を鷲掴みにし、顎も同じように掴んだ。紳士は内側に力を加え、男の歯を打ち鳴らした。
「カッカッカカカカッカッカッカカカカッカッカッカカカカッカッカ」
 紳士はそれを終えると、男の視界から消えた。男の奥歯は数本欠けた。

 20分後、男は立ち上がった。鈍足でありながら、古びたマンションの自室に到着した。男はポケットから鍵を取り出し、錠に差し込み、回した。ドアノブは動かない。男は背中に汗をかいた。もう一度鍵を回すと、今度は開いた。

 男は目を凝らしながら玄関に体を入れた。明かりがついていた。男は落ちていた靴べらを右手に構えた。男は靴のまま廊下を進み、ソファを見た。紳士はいなかった。代わりに、上半身が裸の男が座っていた。その格好は、ボクサーが試合のときに着るものだった。

「だれですか」
 ボクサーは声を聴いた瞬間、ソファの背を乗り越え、素早いステップで男との距離を詰めた。ボクサーはジャブを放ち、男は眉間にそれを受けた。
「もっ」
 ジャブは続く。男の首は打たれるたびに反発し、元の位置に戻る。延々と当たり続ける。
「おっおっおっおっおっおっ」
 ボクサーは男のボディにラッシュを仕掛ける。細かいアッパーのような軌道で、何発も何十発も打ち込まれる。ボクサーは太い声で叫びながら打ち続けた。男はすべての内臓がまっすぐになった。

 ボクサーはとどめのフックを男の右頬に打った。男はバレエのピルエットを踊った。男が握っていた靴べらが宙を舞った。男が倒れたその先に、縦になった靴べらがあった。それはズボンを突き破り、下着を突き破り、肛門を突き破った。靴べらに支えられて、男は体をまっすぐにしたまま、シーソーのような形になった。

 それ以来、男は不死になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?