観音裏の迷宮 第28話 昭和20年の花やしき

 言問通りから観音堂裏に入ると、途端に閑散としてくるのは、戦時下ならではかも知れない。
 本来なら小さな住宅密集地の間に銘酒屋、小料理屋に娼婦宿が怪しげな明かりをともし、六区のブロードウェイから流れて来た男達が大勢行き交う町だからだ。
 観音堂脇の細道に面して小さな長屋を指差し、ここが私の家、と呟く昭島和子と一緒に、平田はその家の前を通り過ぎた。
 花やしきが閉園したのはいつだったろう。
 確か3年前、昭和17年には強制疎開で大半の遊具は取り壊された。
 今は寒々とした廃墟が残されているはずだ。

「入ってみよう」

 人に見つからないように柵を乗り越え、二人は園内に入って行った。

 以前あった遊具も興業施設も、動物園の厩舎も庭園も取り払われた園内は、死の街の様に寒々としていた。
 取り壊された建物の木材を持ち去るものがいるのか、ブロックや板きれ、丸太など細切れになったものが散乱し、かつて子供たちを楽しませたピエロや動物の石造りの人形が苔むし地面に半ば埋まっている様は、さながら死屍累々と横たわる最前線のようだ。
 勝手知ったる園内のはずなのに、本来あるべきところにあるべき遊具がないと全く位置も方角もわからず、平田は迷ってしまった。

「どこか風が避けられるところはないかなあ」

 彼の呟きを耳ざとく拾った和子は、先に立って進んだ。
 浅草寺の仏塔の先には、冴え冴えとした月が夜空を白く照らしていた。

 かつて花やしきには色々な娯楽が詰まっていた。
 ポニー(小型の馬)にひかせて園内を巡る豆馬車、小さなプールに、レールのひかれた園内を走る豆汽車、音楽に乗って夢幻のように回り続けるメリーゴーランド。
 小さな子供も楽しめる紙芝居が園内のスポットに立ち、お菓子を配りながら名調子で子供たちに物語を見せ、語る。
 それらはすべて壊されてしまった。
 戦争は優勢だと、新聞もラジオの大本営陸海軍部発表も声高に叫ぶし、六区に少し残った映画館では『営々たる戦果』をニュース映画が伝えている。
 敵の米英は弱虫で、日本の意気盛んな攻撃と鉄壁の守りの前に次々と降参しているという。
 ならどうして、昭和20年の年が明けると、こんなにも東京は空襲を受けているのだろう。
 味方の高射砲や迎撃機はどうなっているのだろう。
 考えまいとしている「実は負けるのではないか」という思いが、夜の廃墟を歩くうちに否応なく平田たちを襲った。

「うまい事探せないけど、ここなら風よけになるんじゃないかな」

 元は美しい日本庭園だった空き地に、築山の名残りの小高い山と、小川がめぐらされている。
 平田の声に、和子は打ち壊された太鼓橋の下に滑り降りて行った。
 トロそうに見える娘なのに。
 その身軽な動きに平田は舌を巻き、慌てて続いた。
 そこはちょうど天井に穴の開いたテントの中のような地面で、秘密基地めいていた。

「小川の水が抜けるとこんな場所が出来るんだな。ちっとも知らなかった」
「私も知らなかったけど、この前薪を拾いに来て偶然見つけたの」
「飼育員だったときは、遊具の区域にはあまり来なかったからなあ」
「教えて。どの動物が一番好きだった?」

 平田の隣で、和子は無警戒な笑顔を見せた。
 ああ、この子は二十歳と言っても本当に子供なんだな、と平田は直感した。

「懐いてくれるのは仔馬……ポニーかな。猿は案外爪が鋭いし、象は俺がいたころは世話はさせてもらえなかった。掃除や片付けだけ」
「虎とか、獅子も昔いたと聞いたけど」

 和子は子供っぽく丸い目をくりくりさせて、恐そうに聞いた。

「いたよ。でも俺は近寄らせてももらえなかった」
「大きくなったら自分でお金を稼いで、一人前にいい服を着て、花やしきで遊びながらアイスクリームを食べるのが夢だったんだけど」
「行けばいいじゃないか、大人になったら」

 自分達の交わすやりとりの虚しさを、二人は気づいていた。
 平田はいい加減大人の歳だが、周囲に認められていない。
 和子はやっと大人になった所だが、子供らしいことをしないで来てしまった。
 そしてこの先、ちゃんと大人になって赤ん坊を生み、育てていく……この国の大人の女になれるかどうかもわからない。
 自分も青春の楽しみとやらを見つける事は出来なかったが、この隣にいる女の子は更に選択肢のない道を歩くしかないのだ。

「おんなじだよなあ」

 思わず口にした平田の呟きに、和子は不思議そうに顔をあげた。

「何がですか?」
「いや、動物も人間も同じってことさ。仲よくすれば殺し合いの喧嘩もする。同じなんだよ」
「でも動物は爆弾を落としたり、飛行機で撃ってきたりはしないわ」
「その代わり牙と爪で相手を殺すよ。気に食わない相手を集団でかみ殺すとか、お客には見せないけど普通にあったからね」
「恐いから、やめてください」

 和子が大きく首を振ると、鞄が揺れて、中から布の人形がこぼれおちた。
 座り込んだ二人の足の先に転がって来たものを、平田が受け止めると、和子は慌てて取り返そうと手を伸ばした。
 乾いた冬の木枯らしに、和子の襟元の匂いがプンと鼻先をかすめた。

「これは……象?」

 平田は手にした布の人形をまじまじと見た。
 フェルトやモスリンのこっばぎれで縫い合わせたような粗末な造りで、あちこち擦れて破れている。

「ありがとうございます」

 和子は慌てて人形をひったくると、大事そうに胸に抱いた。

「いい年して人形を抱きしめたりして、気持ち悪いと思うでしょうけど、大事な物なんです」
「そうなんだ。親御さんがくれたとか」

 平田は人形を愛する彼女を、別に気持ち悪いとは感じなかった。
 余程大事なのだなと思うだけだった。

「いつからかはわからないけど、初めから持っていたらしいの。誰かにもらった大事なもの。それが親かどうかは私は覚えていないのよ」

 吹き付ける北風の中、和子は寒そうに人形を抱きしめた。

「何となく、親があてがったんじゃないと思うの。私を川原に置いて逃げた親ですもの。でも、誰かはわからないけれど、もらった時とてもとても嬉しかったのは覚えているのよ」

 古ぼけた布の肩掛け鞄に人形をしまおうと俯いた和子の、低い鼻の頭と丸い頬が寒さで真赤になっている。
 その様子がいかにもいたいけで愛らしい。
 気が付くと平田は、その細い腕で、北風から守るように和子を抱きしめていた。
 骨がごつごつと当たる男の腕は思ったより長く、ぎっちりと和子を抱えて包んでいた。
 国民服のボタンが娘の頬にぎゅっと押し付けられ、跡が付きそうだ。
 和子はキョトンとした顔で、何が起こったかわからず、ただ鞄を折りたたんだ膝の上に落としてしまっていた。

「なんですか?」

 和子が間の抜けた声で聞くものだから、平田はなおさら、細い腕にギュッと力を入れた。

「この前はお前に守られたけど、今度は守っていいか?」

 面食らって体を固くする娘の細い襟首が、ちょうど平田の顔のまじかにあった。平田はおもわずその白い襟元に口づけて強く吸った。
 ひっと小さな悲鳴を上げて、和子は首をすくめた。
 押し付けられた平田の薄い胸板から離れようと力を込めて顔を離すと、その口を平田の薄い唇がふさいだ。
 吹き付ける風が一瞬凪いだ気がした。
 男の体の中にすっぽり入って、顔を覆い被せられ唇を接する、その温かさが風の寒さを消していた。
 唇を合わせただけだと思っていたら、男が彼女の小さな歯と歯の間に舌を入れ、その先端に触れたので、和子は驚いて顔をそむけた。
 その拍子に歯と歯がガツッとぶつかり、女の唇が切れて血が出た。
 とたんに男がうろたえ、腕の力は急速に緩んだ。

「すまん。病持ちなのにこんなことをして」

 娘の口元の血をぬぐおうと、腰に下げた手ぬぐいを差し出した。

「見せなさい。ちょっと切れただけかな」

 途端に和子はがくがくと震えだし、立ち上がった。そして一目散に走りだした。
 するとごうっと木枯らしが吹きつけ、平田の体を諫めるように叩きつけた。
 冷たい氷のような風の剣が肺と喉を刺し、咳の発作が始まった。
 ごほごほと激しく咳こみながら地面に伏してのたうち回る男の姿に、和子は立ち止まって戻りかけたが、平田はもう行ってくれと手で促した。
 これは報いだ。
 無理やり女を抱きしめ口づけなどしたから、目の前の浅草寺の観音様が怒ったのだ。
 どうしたらいいかわからず泣きそうな顔で佇む和子を観ながら、平田は立ち上がり、よろよろと来た道を戻り始めた

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