観音裏の迷宮 第33話 炎

 第二波の攻撃は平田と和子が眠る浅草が標的となった。
 深川・木場と同じ大型焼夷弾と、そこから分解して一升瓶くらいの大きさになって降り注ぐ、筒形の小型焼夷弾。
 それが文字通り雨あられと落ちて来た。
 とび起きた平田と和子は窓を開けた。
 川の向こうが真赤な火の壁になり、崖一面の滝のように、炎が上に下にと踊っている。

「最小限身の回りのものだけ持て。身軽に足ごしらえはしっかりと、防空頭巾も」
「逃げる支度!? 消火しないと」
「馬鹿を言え。この状態で火を消そうなんてなんて、無理だ。俺は町内を回って空襲警報だから逃げろと触れ回ってくる。俺を待たないで早く逃げろ」

 平田はそう言ってゲートルに靴をしっかりと履き、腰に予備の下駄をぶら下げて飛び出していった。
 その間たった1,2分の事なのに、火の壁はぐんぐんと自分達に接近し、その火の切れ目から見える町の暗がりがみるみる小さくなっていく。
 その中に平田は小柄な体を翻し、叫びながら走って行った。

「空襲警報発令! 空襲警報発令!」

 ただし平田は、当時義務化されていた『逃げるな! 火を消せ!』とは一言も言わなかった。

「気を付けて! 」

 遠ざかる男の背に叫んで和子は走り出した。
 その声もパチパチメラメラ、バキバキと炎のはぜる音と、焼夷弾の落ちるヒューっというハッカパイプを吸うような音、そして炸裂する腹に響く爆音に消されていった。
 炎の気配がさらに近づいている。
 こうしてはいられない。
 とたんに道の端でまごまごしている婦人に呼び止められた。

「ねえねえどうしましょう。私、知り合いの家に遊びに来ただけだからこのへん分からなくて」
「私もわからないんですが、早く逃げた方がいいです」
「どうしよう。でも逃げちゃいけないんですよねえ、火を消さないと駄目なんですよねえ」

 和子は苛々した。
 今や、暗い夜空が黄金色の雲に覆われているような、火災の真っただ中にいるというのに、まだ防火用水から水を汲み、消火に励む人たちが大勢いる。
 そんなことをしている段階ではないのは、わかるだろうに。
 と、知り合いと見られる一団が、夫人を防空壕から呼んだ。
 見るとそれなりに大きな壕で、奥には年寄りや子供の姿も見える。
 町内会単位で入れる防空壕なのだろうか。

「一人なら入れるわよ」

 婦人は和子のことなど眼中になく、さっさと入って壕の蓋を閉じてしまった。
 和子は内心ほっとして防火用水をバケツでくんで頭からかぶった。
 そして綿入れの防空頭巾から足先まで全身に水を含ませると、申し訳程度に近くの建物に水をぶちまけ、全力で走り出した。

 既に焼夷弾の落ちる場所は、隅田川の向こうの深川や向島から、和子のいる浅草の北にも広がっていた。
 ヒューっと音がしたかと思うと一升瓶のような筒がボンボン落ちてくる。
 地面に落ちると同時にぶわっと火の玉になって辺りを一瞬で火も海にする。
 文字通り雹が降るように前にも後ろにも、走る自分の体ギリギリに落ちて、そのたびに近くを走る人が叫ぶ火柱になって燃え上がり、何歩か走って転ぶ。
 するとそこに足をとられ、つまずいて転んだ人にまた焼夷弾が突き刺さる。
 人の頭を、体をスイカのように破裂させながら、血と肉を焦がすようにナパーム液が燃え上がり、そこが火元となって新たな大火災が起こるのだ。
 次第に集まってくる人や大八車の波に押されながらふと通りの先を見ると、先ほど話しかけてきた婦人が入った防空壕が、大きな炎の玉になって燃えていた。
 中からはどうにか出ようとしたのか、半分露出した腕や人の頭らしき丸い炭の塊が見えたが、周りの家からも噴き出す炎にみるみる飲まれていった。

 平田の長屋のある墨田川のそばの住宅密集地帯は、既に前も後ろも火に包まれていたが、わずかに隅田川の上流方面に火の隙間があるように思えた。
 人の流れは続々と合流して隅田川の言問橋に向かって流れていく。
 和子はそれに背を向けて反対側に逃げようと試みた。
 だが後から後から合流していく避難民の塊は巨大な流れとなって通りを埋め、否応なしに彼女の体を言問橋の方に押しやっていく。
 そっちには行きたくない。
 そっちはもっと地獄じゃないか。
 和子は「通してください!」と叫びながらも、体ごと宙に浮いて人並みに流されていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?