皆の意見はなぜクソなのか

俺は単独行動大好きマン。なので、何かしようとした時によく言われる「それって皆の意見を聞いた?」が死ぬほど嫌いである。しかし、なぜこの質問が嫌いなのかと聞かれると以外とうまく説明できないことに気づいた。なので、言語化してみる試み。

皆の意見とは何か?

そもそもから始めたい。皆の意見って何だ?

俺の経験上大きく分けて2つの意味で言われることが多いと思う。ルソーの言葉を借りると一般意志と全体意志だ。

wikipediaの説明によると、一般意志とは「公共益を達成するために人民が共有しているとされる意思」、全体意志は「各個人の意志(特殊意志)の総和」のことを意味する。

実生活レベルの表現に落とし込むと一般意志は「自分の為ではなく、皆の為と思ったこと」、全体意志は「各人の意見の寄せ集め」といったところだろうか。

ここからは”皆の意見”は”一般意志”あるいは”全体意志”であるという前提で書く。

皆の意見(一般意志)を聞いてみる

皆の意見(一般意志)を聞いてみることにする。「それって皆の意見(一般意志)を聞いた?」とは要約すると「それってあなた個人のためではなくて、皆のためになることですか?」という意味だと解釈している。

答えは当然「俺の為」である。誰が好き好んで自己犠牲をするものか。自己犠牲風に見せかけたり、本人は本当に自己犠牲だと思っているパターンは存在するが本質的に人間は自分の為にしか行動しない。自分の為に行動したことが結果的に人の為にもなるのであって、真に自分の為ではない行動などできない。

よって、「それってあなたの利己的な考えじゃないの?」的な質問は本質的には意味がない。これ聞いてくる奴は正直馬鹿だと思っている。というより騙される奴だと思っている。こういう奴はすぐきれいごとに騙される。「私のやろうとしていることは利己的ではなく、皆の為(もっと言うとあなたのため)である」と言った甘言に騙される。そんなわけあるかということに気づいた方が良い。相手が何か意見を言ってきたり、行動をしてきたりしたらそれは自分の利にもなるのか、それとも害になるのかを考えた方が良い。利になるなら協力するなり、泳がせれば良い。害になるなら妨害するか、回避するかを考える。

話は逸れたが一般意志を聞くというのは理想であって現実的ではない。神でない限り真の意味での一般意志を聞くことはできない。というより一般意志とは何かを認知・理解することが不可能とすら思う。

後述する全体意志を一般意志と勘違いする愚行を犯すよりはましだが、一般意志を聞き入れようとするアプローチは人間には出来ないことをやろうとしている点で非合理的である。

さらに言うと一般意志はルソーによると”常に正しく”、”双方のコミュニケーションが存在しないときに現れる”とのことなので、一般意志を皆に聞こうとしている時点できっとそれは一般意志ではないだろう。

ということで”皆の意見(一般意志)を聞く”というのは不可能という結論とする。

皆の意見(全体意志)を聞いてみる

こっちの議論は簡単だと思っている。答えは”聞く必要がない”。

全体意志とは特殊意志の総体ということなので、要は自分の行動に関連する人たちひとりひとりの意見を聞いたか(取り入れたか)どうかということを問われている。ではひとりひとりの自分勝手な意見を聞いて自分の意見を変えるかどうかという話だが、少なくとも俺は変えない。

行動する前の計画段階でアイデアの参考にするために人の意見を聞くということはしても、こうしようと決断したあとに合意形成的な意味で人の意見を聞く必要はないと俺は考えている。そこからは人の意見を聞くのではなく如何に自分の意見が正しいかを、説得するなり納得させるかである(それができなくとも強制的に従えさせられるかである)。その手段の一つとして相手の話を聞いてやる”ふり”をすることはあっても、相手の意見を取り入れる必要はない。

基本的に「皆の意見(全体意志)を聞いたか?」と聞いてくる奴は「私の意見を聞いてない!」と言っている”自称”「私は皆の為に言っている善人」の超自己中な奴である。そんな奴でも能力があったり、影響力があったりしてその人の意見を無視できないというのであれば俺は事前にその人に根回ししている。つまり、俺から根回しされていない時点でお前にはその価値はないということである。

皆の意見(全体意志)を聞く時、結末は個々人の利己的な意見の殴り合いと確定している。最初からその喧嘩に負けるつもりなら”皆の意見を聞く”という戦争宣言をするなといいたい。そして、そういった争いが起きることは確定しているのだからわざわざ自分からその戦争の参加者を募る必要はない。必要な衝突ならわざわざそんなことをしなくても自然と発生する。

ということで皆の意見(全体意志)を聞くことは百害あって一利なしという結論とする。

なぜ皆の意見はクソなのか

これまでの考えから、皆の意見を聞く必要性はないという結論を導き出せたと思う。しかし、これでは”皆の意見”それ自体がクソという説明をし切れていないと感じる。なので、最後にダメ押しで意見を述べる。

まず前提のおさらい。皆の意見とは一般意志あるいは全体意志である。そして、一般意志とは常に正しくそれにはコミュニケーションは存在しない。ということで一般意志とは実々コントロール不可能なので、存在しないものとして取り扱う。

ということで実生活では皆の意見=全体意志である。全体意志とは各個人の自分勝手な意見の総和である。各個人の意見はさまざまであるがそれらが寄せ集まると相反する意見は互いに相殺し合う。結果的に良く言えば角がとれた意見になるわけだが、その角がとれた意見とはどういった性質を持つのかを考える。

角が取れた意見とはつまり平均的な意見ということである。そして、その平均的な意見とは分母が大きくなればなるほど多くの人間が共通して持つ意見ということになる。

多くの人間が共通して持つ意見というのは基本的に動物的である。一言で言ってしまえば「なるべく楽して、今すぐ良い思いをしたい」である。誰でもそうは思うがそれが現実的ではないことは馬鹿でも分かるだろう。しかし、皆の意見を採用すると結果としてこの馬鹿な意見がまかり通ることになる。なぜなら皆の意見とは”全体意志”だからである。

そういったわけで俺は皆の意見とはクソだと思っている。自己中、自分勝手、協調性がないなんと言われようと皆の意見というクソな意見に従うよりはマシだ。どうせ従うなら誰かの尖った意見に従う方がまだ良い。そして、その誰かは自分であるのが一番望ましい。

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