日本財団の研究5 統一教会が日本中枢に食い込んだ謎―笹川良一・岸信介・庭野日敬―
前回記事のおさらい
前回の記事では、統一教会の日本支部立ち上げ後の統一教会の様子を見ました。
https://note.com/ishtarist/n/n10dff2a9ab3c
宣教師・西川勝が日本に密入国して、数年間は既存キリスト教工作を行いましたが、たいした成果が得られませんでした。その後、立正佼成会の若き幹部が加入し、会長・庭野日敬の絶大な好意を得て、立正佼成会の若い信徒の教育を任されます。そして、立正佼成会からの大量入信によって、統一教会の組織が確立します。その入信者の中には、統一教会・勝共連合初代会長や、原理研初代会長ら最高幹部が含まれていたのです。
統一教会と笹川良一の関係
「偶然の出会い」から統一教会顧問になった笹川良一
立正佼成会と統一教会による「日本青年会」が定期的に開催されているとき、戦後最大のフィクサーである笹川良一と統一教会とのコネクションもうまれました。
笹川良一との出会いについては、実のところ、関係者によって証言が微妙に異なります。詳細は省きますが、最初に出会ったのが笹川良一かその知人なのか、統一教会側の伝道者は誰かなのか、伝道したのはいつなのか、当時の幹部の証言が微妙に食い違うのです。
ただし、これらを話を総合すると、徳島で清貧の中、懸命に路傍伝道をしていた女性を、戦前に国粋大衆党の顧問だった老人が見かけて知り合いになり、見込みがあると笹川に紹介したというのが一番可能性が高いと思われます(『「カルト」の正体』)(愛天 愛国 愛人)。
統一教会の公式見解によると、その伝道者は別府美代子という人物のようで、彼女の墓には「日本統一教会の初期に笹川先生を伝道し、開拓者の先生を助けた人です」と刻まれています(統一教会運動史)。
1963年、笹川良一は統一教会の顧問に就任します(『日本の狂気』)。
同年6月18日には、銀座で行われた決断式に笹川が出席しています。
笹川良一、合同結婚式に参列
1963年、韓国で行われた同年の合同結婚式(124双)に参列したとWikipediaには記載されていますが、残念ながら、裏付けとなる資料を私は見つけられていません。
確実なのは、1968年の合同結婚式に参列したことです。それは本人の証言からわかっています。笹川は週刊誌のインタビューに次のように語っています。
この証言の内容そのものに虚偽が含まれている可能性は高いのですが、それは逆に、この「右翼のドン」が、統一教会の庇護者を買って出ていたことを示しています。
修練会中の変死事件と辨天宗
笹川良一は、統一教会に対して他にどのような支援を行ったのでしょうか。
資金提供の噂は根強くありますが、久保木修巳は「巷間言われているような金銭的な援助は笹川先生から一切受けませんでした」と言っています。ただし、これは現役統一教会最高幹部であった人物の証言であり、その立場から「資金提供された」と言えるはずもないでしょう。
久保木の証言によれば、笹川良一の支援は、戸田のボート修練所などの施設を無料で貸し出したことが挙げられています。
その文脈の中に、ある修練会の変死事件があります。1970年、統一教会の原理研が行っていた修練会で、関西大学の学生が全身打撲で変死し、修練会会長が保護者遺棄・同致死の疑いで有罪となったのです(『日本の狂気』)。
問題なのは、その修練会の場所が、大阪府茨木市の辨天宗・冥應寺内の研修施設だったということです。辨天宗の信徒総代は笹川良一で、冥應寺の土地も笹川が(一部)寄進したものです。冥應寺には、笹川良一の銅像が建てられています。
寄進者の筆頭から二番目には、笹川良一(100万円)の名前が見られる他、地元豪族だった笹川家の名前が多数あることも確認しています。
仏教系新興宗教である辨天宗の施設で、統一教会が研修を行っていた背景には、笹川良一の口利きがあったのは確実だと思われます。
笹川良一と西川勝
笹川良一の絶大な好意はまず、日本統一教会の創設者、西川勝に対するものでした。(西川が密入国し、収監され、脱走した経緯については前回記事をご覧ください。)
創設初期の統一教会日本支部は、現在のからは想像がつかないほど求道的な性格をした組織でした。
パンの耳をかじりながら廃品回収をしつつ伝道を行うなど、清貧の信仰生活を貫いていただけではありません。実は、今からは考えられないことですが、当時の統一教会は偶像崇拝からほど遠く、一般信徒の間ですら教祖の名前はほとんど知られていなかったのです。再臨メシア・文鮮明の名前が知られるようになったのは、日本伝道開始から10年近くたった、1967年の朝日新聞の記事からでした(『日本の狂気』)。
初期統一教会の求道的性質は、偶像崇拝を嫌い、狂信よりも人としての道を優先する西川勝の性格を反映したものです。笹川良一は、そんな西川勝をいたく気に入ったのでした。西川は次のように証言しています。
笹川は西川に、日本人の再教育を本気で委ねようとしました。自身が運営するB&G財団の運営を西川に任せ、100万円もの予算を付けたのです。しかし、利権関係から横やりが入り、西川はそのポジションを辞退しました。
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