見出し画像

石積みキャラバン7 山口県周防大島

久賀の諸職用具として展示されている道具を見に行った。農具、樽、傘、石工、瓦、織物に使うそれぞれの工程と大きさ目的に合ったたくさんの道具。使い古された、修理しながら使うに耐えられる丈夫さ、単純な素材と合理的な形。

周防大島出身の宮本常一氏の指導によって集められたらしい。昭和47年から道具を集め始めたらしく、江戸から明治時代にかけて集められたものもたくさんあった。今ではこのような道具を集めることは難しいと思う。

久賀では、切石の職人を「石屋」、棚田の隧道などを積む職人を「石工」と呼んでいたそうだ。そして農閑期には石工がテゴを連れて出稼ぎに行っていた。石を整形する人と石を積む人は違う。昔の公共工事では、常に石を整形する職人さんと石を積む職人さんがいた。コンクリートが普及する前は規格化された間知石をつくる職人さんが集落に一人はいたらしい。この間岐阜県に行ったときにも、区長さんのお父さんが土木の公共工事で使う間知石をつくる職人さんだったという方にお会いした。

石の道具では、石を割る道具であるノミやセットウ、玄翁、石を動かす道具であるショウセン、石を運ぶ道具であるモッコなどが飾ってあった。

ノミは驚くほどたくさん置いてあった。石の質や大きさによって使い分けていたのだと思う。ミサイルのような形をしたノミが多かった。ハッパノミという、石を割るための火薬を入れるための穴を開けるノミはそのような形が多かった。セリ矢もたくさんあった。前に野鍛冶屋さんで聞いた話では、ノミは石に食い込ませながら穴を広げるために、先端の突端分が丸くすぼんでいる形をしているということだったが、それはある程度穴が開いた後に打ち込むトビ矢だけの話なのかもしれない。ところで以前鍛冶屋さんでこのような話をきいた。昔の鉄は炭素が少なく柔らかかったのでノミは叩いたところが今のノミよりも、桜の花びらのように開いてくる。それがよく手に刺さるので痛かったそうだ。

玄翁は10キロくらいの重い玄翁が多かった。胴の部分が膨らんでいて先が細くなっている。そして柄は細く長い。このくらい重いと柄をしならせながら石を切ることになるので、扱いが大変難しかったそうだ。ホームセンターに売っている大きなハンマーは柄がしならないので腕が痛くなる。大体1.5キロ〜2キロくらいの玄翁で肘から先の長さが最適だと言われていて、重いハンマーになるほど柄が長くなる。

金属が高価な時代であったためか、戦時中であったためか、ショウセンは先の部分だけが金属で柄の部分は木でできていた。確かに石をこねる(動かす)ときは先の5センチの部分しか使わないのできちんと役割を果たすことはできる。ここでは、フンヅキと言っていたらしい。

モッコは現物で見たことがなかったが、名前はきいたことがあった。太い縄でつくった網の上に石を置いて石を運ぶ道具だ。ここでは、イシワ・イシモッコクと言っていたらしい。石を運ぶことは石積みで1番重労働だと思う。土を掘ることも大変だが、重い石を運ぶ労力には敵わない。今では農地の石積みを積むなら崩した石をそのまま使えばよいが、新たな畑をつくるところは石を運ぶところから、もしくは掘削した土砂の中から石を選り分けないといけなかった。石を運ぶことはそんなに手間のかかることであるから、遠いところからわざわざ石を運ぶことはあまりしなかった。また、昔からある石積みで石を置いただけという感じの石積みは多い。農地を開拓した人は一旦は問題がない積み方をしておいて農業が落ち着いた頃に直せばよいと考えていたのだと思う。積むスピードが尋常ではないほど早かったので崩れてもすぐに直せたので問題はなかったのだと思う。

徳島県のある集落に住んでいるおばあさんからきいた話によると、家に新たな石を積むので学校の帰りに石を1つずつ持って帰ってきなさいと言われていたらしい。また、別の集落では家の基礎の石を積むために下の方に流れている川からワイヤー引っ張り大量に石を持ってきたらしい。

帰りに島を一周ぶらぶらしていると、コンクリートの強度を知るための試供体を積んでいる段畑があった。その下の段には面がピシッと揃っている石積みがあったが、どちらも馴染んでいた。
穏やかな海から緩やかな傾斜をあがったとこに柑橘の畑が広がっていた。地元の人にきくと鰻の美味しい店を紹介してもらったのでお昼ご飯をそこでいただいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?