石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(七)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「禅僧、一般人の殺生(肉魚を食べること)を非難する」

(ある禅僧)
「今日ある家に行ったら、その家の息子の婚礼ということで、魚類等を使い生き物を殺し、殺生戒を破り、めでたい席なのに物の命を取る。誠に一般の家は浅ましいことをして、これを喜ばしい儀式とする。哀しいことだ。」

(梅岩)
「あなたは仏法を学ぶといえども、小乗を知って、仏の大乗を知らないというのは惜しいことだ。」

(ある禅僧)
「知らないということはない。なぜかと言えば、仏法はまず五戒を保つことを第一とする。その中に殺生戒があって、重い戒めとなっている。儒家にて言えば五常の仁のようなものだ。儒家において仁を損なう者を善とすることがあるだろうか。あなたは儒を説くといえども、いまだに仁の意(こころ)を知らないと言うのなら、聖人賢人の本意がまだわかっていない。」

(梅岩)
「仁は慈愛の徳があって私心のないことを言う。あなたのように私心を持っている者が、仁を知るということはできない。あなたは禅家を学んでいるようだが、その本意をまだ知らないようだ。すでに南泉和尚は猫を殺し、蜆子和尚は海老を釣ってこれを食べた。行いによって見るならば、これらの僧は殺生戒を破る悪僧だとしてことごとく否定するというのか。またあなたの日々の殺生は数え切れないほどである。まず今朝から食べた米の数は何粒だったか分かっているのか。」

(ある禅僧)
「五穀は非情である(感情を持たない)。殺生にはあたらない。」

(梅岩)
「大乗の法に、有情非情と隔てて見るということがあるだろうか。隔てがあると言うのなら、草木や国土には仏性はないと言うのだろうか。日本書紀の神代巻に、「イザナミノミコトは、「私は千人を殺すだろう」と言った。イザナギノミコトは、「私は千五百人を生むだろう」と言った。」とある。この両神は陰陽の神である。天地の間には、自然に生むと殺すとの二つがあるということを知るべきである。今日物を用いるのもこれに倣ったものである。万物は一理にして軽重あり。その順序が逆にならないことをもって善とする。この理をもって天地で行われることを見てみるべきだ。強者は勝ち、弱者は負けるのは自然の理である。身近なもので知りたければ、鳥獣の様子を見てみなさい。ワシやタカは他の鳥や哺乳類まで取ってこれを食べる。また鵜(ウ)やサギは魚類を取って食べる。スズメやその他の小鳥はクモやイモムシなどを食べる。犬や狼は鹿や猿などを取って食べる。これらのことは殺生と言うべきだろうか。それとも天の道の行いと言うべきだろうか。戒律も、天の理を知らないと保つことができないということを知るべきである。夏になって土用の頃になれば、米をついて一日二日たてば、コヌカムシが湧いてくる。このコヌカムシは非常に小さいので見えにくい。米の中に手を入れるとき、手がかゆくなるのはこのコヌカムシのせいである。そのかゆいときに黒い器に米を入れ、その米を取ってよく見れば、何かが動いているのが見える。それがコヌカムシである。たとえ五穀は非情であるといえども、このコヌカムシがいれば殺生戒を破ることになる。戒律を守る僧は、夏になったら五穀も食べることは許されないだろう。食べなければ死んでしまう。ここに至れば、食べてもなお全く戒律を保っているということがわかるだろう。仏の教えに従って戒を保とうと思うのであれば、まず我を離れることを修行すべきである。この身このままにて地水火風空であると、一度見性(本来の自分を知ること)する時は、我も世界の一物である。その時に人とコヌカムシとどちらが貴いのだろう。いたって賤しいコヌカムシを助けて、いたって貴い人を殺すことはあってはならないことだ。仏は無心にして不可思議(無念無想)を体とする。釈迦もコヌカムシの湧いた五穀を食べる。そうであれば、貴い者のために賤しい者を殺すということからは逃れられない。殺生戒の源もこのようなものである。天の理を知れば戒は容易に保つことができる。神、仏、聖人は誰が師で誰が弟子ということはない。みな心の欲するままであるけれども自ずから天の道を行うのだ。天の理を知らなくては、いずれの道にもかなうことはないだろう。よくよく考えてみることだ。天の道は万物を生じて、その生じた者をもってその生じた物を養い、その生じた物がその生じた者を食べる。万物に天が与える理は同じであるけれども、形には貴賎がある。貴い者が賤しい者を食べるのは天の道である。また仏教には「草木国土悉皆成仏」とあり、万物はみな仏である。そうであるけれども形には貴賎がある。貴い人間仏が、賤しい五穀仏、果物仏、水火仏を食べて、世界は成り立つものである。この理を知るべきだ。聖人が物を用いる時は、貴い者と賤しい者とは礼をもって分ける。貴い者のために賤しい者を用いることを知るべきである。例えば、君は貴く、臣は賤しい。賤しい臣は、貴い君に代わって死ぬこともある。貴い君が賤しい臣のために死んだという話は聞いたことがない。このように賤しい者が貴い者に代わるというのは、天地の道なのであって、全くもって君の私心からなすものではないのである。聖人が物を用いるのに、礼をもってなすというのは、このようなものなのだ。だからこそ、臣として君を棄てるものを賊臣と呼ぶ。あなたも今朝から、何万という五穀仏と果物仏を殺して食べて身を養っている。けれどもこの理を知らない。知らないといえども、意識せずに、賤しい者をもって貴い者を養うという理にはかなっている。あなたは小乗にこだわって、私は殺生はしない、非情の物を食べると言うが、「草木国土皆仏」と説く仏語を偽りとするのか。これを偽りとするなら、仏教はみな破り捨てるべきである。捨てずに用いると言うのであれば、あなたも大仏が小仏を食べて殺生をしていることに変わりはない。自ら殺生をして身命をつないでいながら、一般の家の宴席に生き物を殺すのは浅ましいことであると言う。仏の本意を知らないで他人を非難するのは、大きな罪である。(中略)あなたは禅を学んでいるようだが、本来の面目(自分)をまだ会得していない。(中略)あなたも自性(本来の自分)を知れば、五戒は言うに及ばず、百戒二百戒でも容易に保つことができる。ぼやぼやしている場合ではない。一刻も早く会得できるよう修行しなさい。この理を得ることができれば、その時にこそ、出家は出家で殺生戒を保つことが知られるだろうし、一般の家ではめでたい事に魚鳥を用いても善であるということが知られるだろう。何も疑ったり怪しんだりする必要はない。一般の人と出家者とを混同してはいけない。わかりやすいように例えて言えば、まず身体は一つであるけれども、首は上にあって足の代わりにはならない。足はまた手の代わりとしては使われない。口は身体を養う入り口であるが、目の代わりにはならない。耳は鼻の代わりににおいを嗅がない。全て天地の形は明らかである。よって万物はみな、形が異なり、それぞれの法を持つのだ。そうであれば仏の法をもって、一般の人に当てはめてはならない。心を清浄にするというのは仏教においても同じであろう。身をもって行い、家をととのえ、国や天下を治める法としては儒教をもって善とすべきである。仏教をもって世の中を治めようとするのは、馬や駕籠に乗って海や川を渡るようなものである。五戒を保ちながら、政治を行い罪人を殺すことはできないだろう。また殺さなければ政道が立たなくなる。刑罰なくして政治は成り立たない。あなたが言うところは、水と火を一つにしろと言うようなものだ。一つにしてしまえば水は湯になり火は消える。水と火は分かれているからこそ人々を助けるのだ。よくこの理を考えてみなさい。」

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