石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(十三)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「学者の日頃の行いが理解しがたいことを問う」

(ある人)
「あるところに幼い頃から学問をし、四書五経は言うに及ばず、どんな書物でも暗記してしまうほどの徳のある人がいる。けれども理解できないことが多い。一例を挙げれば、お金を借りたりするときにいい加減なことが多い。自分でも倹約を守り、それでもどうしようもなく足りないと言うのであれば分からなくもないが、自分の生活はだらしなくて人に金を借り、そのうえ親との関係もなんとなくあまり良くないようで、親の心にかなわないのであれば、まずは不孝者と言うべきだろうか。さて日頃の行いを見れば、物知り顔をして高慢であり、喋ることは達者だけれども、聞き慣れない挨拶などをしてとにかく耳に入りづらい。なんとなく近寄りがたい雰囲気があって、十人中九人までが嫌う。これをもって見れば、「親が(息子を)気に入らないのももっともだ。」と言う者が多い。博学の徳があって、このような人柄というのは、一体どういうことか。」

(梅岩)
「あなたは徳ということを全く知らないと見える。知らないから、そのようなおかしなことをわざわざ聞くのだろう。その学者が学んだのは徳に至る学問ではない。(その者は)文字芸者とでも呼ぶべき者である。」

(ある人)
「それでは書物を読むことの他に学問というものはあるのか。」

(梅岩)
「いかにも学問というのは書物を読むことである。しかし書物を読んで書の心を知らなければ、学問とは呼ばない。聖人の書には聖人の心が含まれている。その心を知ることを学問と呼ぶ。その心を知らずに文字ばかりを知っているのは、単なる一つの芸にすぎないのであって、そういう者を文字芸者と呼ぶ。」

(ある人)
「書を読むことは同じなのに、分けて二つとするのは、何か根拠があるのか。」

(梅岩)
「孔子は子貢に「あなたは器ものである」と言った。子貢は記憶が良くてたくさん書けるけれども、いまだに徳には至っていない。志はあっても、仁に至らないうちは器であると言う。器ものとは一つの役目を果たすが、万事に通じることはないということである。子貢は志があるので、ついには性(本来の心)と天の道を聞いて、君子の徳に至った。あなたが言う学者は、親には不孝をなし、他人には偽りを言う。これはみな不仁のことである。文学ばかりの一芸であるから、文字芸者と言うのだ。徳とは心に得て身に行うことを言う。自分の心を得れば、父母には孝行をなし、他人には偽りを言わない。偽りを言わなければ、支出と収入がいい加減にはならない。返すあてのないものは借りない。飢えて死ぬとしても不義の物は受け取らない。「自分が欲しないことを人に施さない」。自分の才能をもって人に誇らず、他人の良いところを自分の身に移し、人の悪事を見ては、自分にもこのような悪事はないかと恐れ、自分を省みて、仁義の志があってそれが止まないのを聖人の学問と呼ぶ。孔子は、「顔回という者がいた。学を好む。怒りを移さず、過ちを繰り返さず、不幸にして短命で死んだ。」と言った。顔回の心は鏡が物を映すようである。右の怒りを左に移さず、前に誤ったことを後に繰り返さない。このように心を得て身に行うのを、徳に至ると言う。これゆえ文学に長じた子夏、子游を、(孔子は)学を好む者とは言わなかった。あなたの言う学者は、どれだけ長い間文字を数えたとしても、書の心を得ることがないために、不孝であり、世の交わりも悪く、不義の類が多い。けれども文字さえ読めば徳があると思って、世間の人は勘違いをしているのである。よく気をつけなさい。」


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