石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(十)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「性理問答(一)」

(ある学者)
「孔子は三綱(君臣、父子、夫婦の恭順)五常(仁、義、礼、智、信)の道を説き、性(本来の心)理(万物の本体)については述べなかった。孟子に至って「人の性は善なり」と言われ、また「我浩然の気を養う」と言われるようになった。告子は「生これを性と言う」と言い、また「性は善なく不善なし」と言った。あるいは「性はこぶ柳の如し」、「性はぐるぐる回る水の如し」などとも言う。また韓退之は「性に三品あり」と言う。荀子は「人の性は悪、その善なる者は偽りなり」と言う。楊子は「善悪混ぜり」と言い、かつ、老子、荘子、仏教の説、かれこれその数をあげても数えきれないほどだ。どれを是とし、どれを非とするのか。我が国の儒者も、あるいは孟子を是とし、告子、韓子を是とし、または孟子を非とし、また孔子以下をみな非だと言う者もいる。その議論は一つに定まっていない。あなたは宋儒を是とし、孟子を尊信し、人の性は善であると言う。私が思うに、そのように決定することは難しい。もとより同じ人間なのだから、あなたにとっても決定することは難しいはずだが、孟子に与する儒者も多く、かつ世間的にも、孟子を善と思う者が多いので、あなたも実は孟子の性善を会得し肯定する心には至っていないけれども、まずもって「性は善なり」と言っているように見える。それは学者の正直とは言えないだろう。私が言うように、疑わしいものについては疑いがあると言うことこそ正直というものではないか。もっとも、世渡りの都合を考えればそれはあまり良くないだろうが。けれども心にやましいことはないと思う。あなたの本音を問うならば、性善にはこれぞという証拠はないだろう。証拠はないけれども、まず孟子にちなんで、性善と説いているのではないか。」

(梅岩)
「いや、そうではない。とはいえあなたはどのように考えてもよろしい。所詮私が言うことは耳に入らないだろう。」

(ある学者)
「あなたの本音を言い当てられたので、そう答えたのではないか。」

(梅岩)
「そうではない。孔子は「朽ちた木を彫ることはできないし、糞土の塀を塗ることはできない」と言った。あなたのように自分の本来の心を見失っていて、かつそれを知らないでいる者に話をしたとしても、朽ちた木に彫り物をするようなもので、相手がいないのであれば死人に話をするのと変わらない。誰に向かって話しているのか。性善というのは、まず自分の性(本来の心)を知らなければ理解できない。孟子が善と言うのは是か非か、自分の性にかなうかそうでないかなどということは、まず自分の心に法(手本)を求めて、その後に考えるべきことである。まず性善のことは差し置く。孔子が「一貫(我が道は一をもってこれを貫く)」と言ったことについてはどう考えているのか。」

(ある学者)
「それは曾子曰く「忠(誠実さ)恕(思いやり)のみ」である。何を疑うことがあろうか。」

(梅岩)
「曾子の忠恕は至って善である。後世の性理に詳しくない者でも、忠恕を一貫のことであると言うことはできる。しかし、一貫を忠恕のことであると言うことはできない。なぜかといえば今の時代においては、和漢ともに忠恕とばかり言っているのでは、聖人の道統(正統な道)とは思われていないからだ。それゆえに(忠恕とばかり言うのは)道統をないがしろにする罪がある。それをあなたは性善を知らないでいて、一貫をもって忠恕のことであると言うのは、曾子の粕(中身ではなく文字)を言っているに過ぎない。一貫というのは性善至妙の理なのであって、聖人の心なのであるから、文字を離れて一人で会得するところのものである。曾子はこれ(我が道は一をもってこれを貫く)を聞き、その意味を理解し、自らの心にかない疑いがなかったからこそ、唯(はい)と答えた。他の弟子たちも同様に聞いたけれども、理解することができず、孔子が出て行った後に、「どういうことか」と曾子に聞いた。一貫と言っても理解してもらえないので、曾子は「忠恕のみ」と答えたのだが、その心は理解されなかった。孔子はすでに子貢にも一貫と告げたけれども、子貢はいまだに達していないので答えられなかった。曾子は道統を会得しているので、忠恕をもって至誠一貫の理を説いた。会得した者は自由なので、一貫を忠恕と説いても問題はない。問題があるかないかは、会得しているかそうでないかによって決まる。あなたは忠恕と説くが、まだ性善を知らないのであれば、曾子が忠恕と説くのとは決定的に違う。それをただ忠恕ばかりのこととして置いておくとしても、後々いろいろと辻褄が合わなくなってくるだろう。師たる者はこの理を説くべきである。あなたは性理に詳しくないため、まだこの理を理解できていないと見える。」

(ある学者)
「そこのところは、師たる人も理解しきることができないけれども、これは聖人のことなのであって、今の学者が知ることのできるものではない。忠恕のことであると言って、それ以上のことは、論議は決してしないものだ。」

(梅岩)
「あなたは今の学者が知ることのできるものではないと言う。聖人の教えは古今に通じて変わることはない。今と古(いにしえ)に分かれるのは、仏教の末世という教えである。混同すべきではない。さて孔子は「適も無く莫も無く」と言い、また顔淵は「前にあるかとすれば忽然として後ろにあり」と言い、孟子は「道は一のみ」と言う。このような類の文は多い。あなたはどう理解しているのか。」

(ある学者)
「そのようなことは深く考えたことがないので、すぐには返答できない。」

(梅岩)
「この三つはみな心のことであるが、それをすぐには返答できないと言うのは、今まで書を読むことが多かったとしても、何の役にも立っていない。論語の書はみな聖人の心であるのに、その心を知らないままで何を手本として身を修め、人を教えられるというのか。」

(ある学者)
「孔子の道は、五常五倫の他にはない。何を疑うことがあろうか。」

(梅岩)
「あなたは、「一のみ」の一を知らなければ、道を知っているとは言えない。孔子曰く、「人よく道を弘む(広く盛んにする)、道の人を弘むるにあらず」。「心をよく性を尽くせば、人よく道を弘む」「人のほかに道なし、道のほかに人なし。人の心は覚(さと)ることあり」。ここをもって道を弘む。覚(さと)る心は体である。体が立って用が行われる。その用は君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の交わりである。仁義礼智の良心は、その五倫を行わせる心である。あなたはこの心が一であることを知らない。」

(ある学者)
「あなたの言うところも一理あるから、どれを学んだとしても同じことなのであろう。私も今後は心のことについても考えてみるが、けれども孟子の性善はますます理解しがたい。聖人は知、仁、勇の三徳を兼ね備えて善となす。賢人でさえもこの三徳を兼ね備えることはできない。我々ごときはさらに劣る。それを一列に善と言うのはどういうことか。」

(梅岩)
「孔子は易で、「一陰一陽これを道という。これを継ぐ者は善なり。これを成す者は性なり」と言っている。天地は一陰一陽である。陰陽の他に何かがあるか。」

(ある学者)
「五行(木、火、土、金、水)説もあるが、陰陽説であれば、陰陽の他には何もない。」

(梅岩)
「それであれば陰陽は二つか、一つか。」

(ある学者)
「二つとも分けがたい。また一つかと思えば動静の二つである。」

(梅岩)
「動静の二つである。その動はどこから来て、静かになるのはどこへ帰るのか。」

(ある学者)
「無極や大極と言われているけれども、とどのつまり、無いものに名をつけているのではないか。しっかりと理解することはできない。」

(梅岩)
「無いものではない。大極と言うのは、天地人の体である。まずあなたの鼻の息と口の息とは、二つか一つか。」

(ある学者)
「これも分けがたい。」

(梅岩)
「その口と鼻の息は、そのまま天地の陰陽である。天地に吐いて天地から吸う。その吸うのと吐くのとをしばらく止めたままにできるか。」

(ある学者)
「止めることはできない。」

(梅岩)
「呼吸は天地の陰陽であって、あなたの息ではない。よってあなたも天地の陰陽と一致していなければ、たちまち死んでしまう。陰陽の他にあなたの命はないということは明らかである。吸う息は陰である。吐く息は陽である。「これを継ぐ者は善なり」。身の動も静も天地の陰陽である。易と何か異なることがあるだろうか。孔子は天地をもって道の体を説き明かしたのだ。それに対して孟子は人をもって道の体を説き明かした。天と人とは一なのであれば、道もまた一である。周子曰く、「五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極はもと無極なり」。この無極を一と言うべきか、二と言うべきか。それを自分の心にはっきりと会得するのでなくては、何をもって道を説くというのか。酔いの中に夢を説き、世を惑わせることは悲しいことではないか。早く孔孟の一を知るべきだ。孔子孟子は割印のようなものだ。孔子を是とすれば孟子も是である。私が孟子の性善を貴ぶのは、粕を食べて(文字だけを読んで)与するというものではない。私自身の心にかなうからそうするのだ。このように言うときは、とても簡単に知ることができるように聞こえるかもしれないが、この境地を味わい得ることは難しい。味わい得ることができれば、生死は一致する。これゆえに、「朝(あした)に道を聞き、夕べに死すとも可なり」と孔子も言ったのだ。さて孔孟の言う善というものを、世間の人は間違って解釈していることが多い。性が善であるならば、世の中はみな善人ばかりで、悪人はいないはずである。それなのに悪人も多いのであれば、性善というのは虚名(実際にはないものの名)なのではないかと疑う者が多い。ここをもって味わい得る者は少ない。なぜかと言えば、日常において、この人は善、あの人は悪、というように善を悪に対するものとして見るために、聖人の本意を見失って、大きな誤解が生じるところなのだ。」

(ある学者)
「その大きな誤解が生じるところを、聞かせてもらいたい。」

(梅岩)
「それなら天地の道をもって説明しよう。今ここに田地が二反あるとする。同じ百姓の力を用い、同じ肥やしで、その植える苗も同じ。植える時も同じ。それなのに一反からは米が三石取れ、もう一反からは米が一石五斗しか取れなかったとする。そのとき、一石五斗の田に悪心があると言うだろうか。また、三石の田に善心があると言うだろうか。」

(ある学者)
「田には心はないから、悪心とは言わないだろう。けれども上田、下田とは言われる。」

(梅岩)
「それであれば、土に変わりはなく同じ土なのにもかかわらず、上田下田の違いはあるということになる。土には肥えているものと痩せているものがあるといえども、土の理(本質)に変わることはない。理が同じであるがゆえに、だんだんと肥やしを入れ土を入れれば、下田は中田となる。中田は上田となる。これを人に例えれば、下田は小人である。中田は賢人である。上田は聖人である。聖人と賢人と小人と違いはあるけれども、元の性善は同じなので。学んでいけば少しずつ、小人は賢人となり、賢人は聖人となる。これは性は一つである証拠である。さて聖人も賢人も小人も、今日生きて動いているのは、呼吸の二つ(吸う、吐く)である。この二つが何からもたらされているかを会得すれば、それは形のないもので、万物の体となるものである。これを名付けて善であると言う。この性の善であることは私の思考をもって知られるべきものではない。孟子の性善は前にも説明したように、悪に対する善ではない。誤解することのないように。」

(ある学者)
「孟子の性善と、告子が性について「善もなく不善もない」と言うのは同じことなのだろうか。善もなく不善もないところとは、空々寂々としたところのように思える。孟子はその空々寂々としたところに名を付けて、性善と言ったのではないか。告子はありのままに、「善もなく不善もない」と言った。言葉に違いはあるけれども、どちらも虚名である。それを孟子は是として、告子は非とするというのはどういうことか。」

(梅岩)
「ここはあなたがまだ理解できていないところだ。まず告子が「善もなく不善もない」と言うのは、これは思慮である。なぜかと言えば、私の性(本来の心)を探求して考えてみても、それは善とも不善とも分かれていない。それであれば善も不善もないのだと、思慮をもって見たところを言っているのだ。孟子の性善はそのまま天地の心を言うのである。人が寝ている時でも、無心で動くのは呼吸の息である。その呼吸は私の呼吸ではない。天地の陰陽が私の体に出入りし、その形が動くのは、天地浩然の気によってなされるところのものである。私と天地は渾然たる一物であると貫通するところによって、人の性は善であると説くのだ。自然にして易にかなっている。さてここのところは前後ともに理解しにくいところである。黙ってよくよく考えてみることだ。易は天地について説かれているので、すべては無心のなすところである。その無心の陰陽が、ひとたびは動き、またひとたびは静かである。これを継ぐものが、善であると言うのである。この微妙なところと、告子が言う思慮とを、一列にして考えるべきではない。大いに異なるところなのだ。孟子の性善は生死を離れた天の道である。告子の、日々生滅を繰り返す思慮から出た言葉と一列にしてはならない。ここは簡単なようでいて知りがたいところだ。思慮をもって知られるところではない。(必ず本来の心を知ることができるはずだと)信心を堅固にして、ああでもないこうでもないとひたすら考え、孔子が楽を学んだ際、三ヶ月の間肉の味が分からなくなったように没頭することによって、ようやく知られるものだ。世の人は書物を読みながら、この性善というものを知らない。知らないでいて書を読む者は、病人のようなものだ。健康な人は食べ物のうまい味わいを知っている。病気の人も食べ物を食べるけれども、うまい味わいがわからない。だから喜ぶこともない。性善を知らない者もこのようなものである。書は読むけれども、書の意味がわからない。かえって孟子の性善と非と見る。孟子の性善は天である。孔子の易の性善も天である。天地と人とは別々であると言うなら、口と鼻とを塞いで生きてみなさい。天地の陰陽を受けることなく生きられるのであれば、孟子は非である。死んでしまうと言うなら、孟子は是であって、天地の性善と一致していることに決まる。これが明確な証拠である。その呼吸をもたらしているものが何かを知らないから迷うのである。その迷いによって、告子の説をもっともだと納得してしまうのだ。告子が言うように「性には善も不善もない」と言えば、人々はこぞってそれに賛同するかもしれないが、一歩退いてよくよく考えてみるべきである。性には善も不善もないと考えることは、初めはほんの少しの違いではあっても、後々大変大きな誤解となる。聖人の道は天地のみ。天地には見える通りに清(す)むと濁るがあって、天は清み地は濁る。清む天も濁る地も、どこを見たとしても、万物を生じ養う体(本体)というものは見えない。それは無心であって、万物を生成して古今において変わることはない。その生成を受け継ぐものを善と呼ぶ。これを分けて言えば天は形がなくて心のようなものだ。地は形があって物のようなものだ。その生成するところは活物のようだ。無心であるところは死物であるかのようだ。天地は死活の二つを兼ねたものである。死活の二つを兼ねて渾然として一となすがゆえに万物の体となる。そのものを仮に名付けて、理とも性とも善とも呼ぶのだ。それなのに私意を用いる者は、天地は活物であると、一方のみを知って、死活を兼ねて一理であるということを知らない。それによって害をなすことが甚だしい。このために孔子は、「異端を修めるのは害なり」と言ったのだ。天地を人に例えて言えば、心は虚にして天である。形は塞がって地である。呼吸は陰陽である。これを継ぐものが善である。用をなすところを司る体は性である。これをもって見るべきだ。人は全体一個の小天地である。自分も一個の天地であると知れば、どこに不足があると言うのか。告子はこれを知らない。日々生滅を繰り返す思慮をもって、自分の性(本来の心)だと思っている。思慮は性ではない。なぜかと言えば、思慮のない天の理に異なるからである。この味わいを知らない者は、天の道にかなうことはないために異端と呼ぶ。渾然たる一理の性に至った孟子とは異なるところである。」

(ある学者)
「天と人は一つということは聞くことはあるけれども、自分自身も天地と一つであるということは、いかにも理解しがたい。あなたはこの理を知っていると言うのか。知らないことは言えないはずだが、どういうことか。」

(梅岩)
「書経に、「天の視(み)ること我が民の視るにしたがう。天の聴くこと我が民の聴くにしたがう」とある。天の心は人の心である。人の心は天の心である。これゆえに古今において一である。あなたが今話をしている相手は誰か。」

(ある学者)
「対しているのはあなたである。」

(梅岩)
「私は万物の一である。万物は天から生まれた子である。あなたは万物に対することなく、何によって心を生じるだろう。これは万物は心であるということである。寒くなれば身をかがめ、暑くなれば身は伸び、寒暑はそのまま心である。よくよく考えてみることだ。」

(以下私見)
心は鏡のようなもの。。暑くなれば暑いと感じ、寒くなれば寒いと感じる。。もし万物がなければ心もない。。万物があるから心は生じる。。三浦梅園は、物は気であり、気は物であるとした。。アインシュタインは、質量はエネルギーであり、エネルギーは質量であるとした。。梅岩は、万物は心であり、心は万物である、と言いたいのだろうか。。

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