石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(八)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「ある人、親へ仕えることを問う」

(ある人)
「私の祖父の時代に私の家に勤めていた奉公人が、今では僧侶をしている。この者が常々私を不孝者のように言い、孝行しろと度々言ってくるけれども、私はそれほど不孝者だとは思っていない。孝行とは、どのようにするべきか。」

(梅岩)
「孝行というのは、ただ志を養うことを本(もと)とする。昔、曾子という人が、その父を養うのに必ず酒と肉を用いたという。食べ終わって食器を下げようとするとき、父に「この余りは誰かに与えるつもりか」と聞き、また、父に「余りはあるか」と聞かれれば、必ず「あり」と答えたという。親の心に、誰かに与えようという思いを持たせないようにと気を遣ったということだ。このように志を養って親に仕えることを孝行と呼ぶ。」

(ある人)
「私は父母を養うのに、父母が衣服食物などをどのようにしても、それについて善いだの悪いだのということを言ったことはないので、父母の志を害するようなことはしていないつもりだ。」

(梅岩)
「お前は父母の体を養うことを孝行だと思っているので、その僧侶が忠義をもって言うことを聞き違えているのだ。私は志を養うべきだと言っている。少し思い当たるところがあるので聞こう。まずお前は時々遊興に出かけては、夜更けに帰ってくると聞いたが、本当か。」

(ある人)
「私も以前は度々遊びに出かけていたが、親たちがそれを嫌って、当分外出を禁止するなどと言ってきたので、私も困り、納得できずにいたところ、その僧侶が仲裁してくれて、若い者のことだから、気晴らしのために、月に一、二回ずつの遊興は許されるべきではないかと言って、両親ともに納得して、許しを得て遊びに出ているのだ。また夜更けに帰ることについては、月に一、二度のことだから、ゆっくりと遊んで帰ったのだ。けれども父母の志を損なうほどのことではないだろう。元来親たちは気が小さいので、奉公人を起きたまま待たせておくことを気の毒に思って、門を叩かせないために、午前二時ごろまで待ってくれているけれども、そう頻繁にあることではない。月に一、二度のことであって、その代わりに翌日は好き勝手に寝ていられるのだから、これも親たちの志を害することにはならないはずだ。」

(梅岩)
「お前は遊びに出かけて、月に一、二度のことなのだから、父母を夜更けまで待たせておいても心苦しいことはないと言う。まず親に仕える者は、夕べには遅く寝て、朝には早く起きて、父母の安否を問うのが子の道である。お前は自分の遊興のために、両親が寒暑に苦しんでいるのにもかかわらず、夜更けまで待たせておき、よくも楽しく遊んで来られるものだ。総じて待つということは退屈なものだ。待っているだけでもそうなのに、両親はお前の顔を見るまでは、「酒を飲み過ぎてはいないか、喧嘩でもしていないか、寒くはないか、風邪を引きはしないか」等々いろいろと心配しているのだ。そのうえ奉公人のことまで思って、「これほどの夜更かしをしているのを、両親は何も言わないのだろうか」と思いはしないかと気を遣い、また下女たちがくたびれて、「もう午前二時も過ぎた」などとつぶやくのを聞くときなど、心を痛めることが多いだろう。その苦しみ痛むことを知らないで、父母を夜更けまで待たせておき、翌日は勝手に寝られるとは、いかに愚かだといえ、そのような不孝をなすのは、父母の志を害することに他ならない。さて、またお前は家業のことはどう考えているのか。」

(ある人)
「家業のことは、いまだに何も心がけていない。そのわけは、最近は友達との交流が多く、謡、鼓、茶の湯なども心がけていないと、交わりが薄くなってしまうので、それらの稽古事に忙しくしていて、家業のことは、さして心がけていることもない。家業の仕事は番頭や奉公人たちの役目なので、何もしなくても勤まることである。それなのに僧侶は親たちに、家業のことは、子供の頃から見習わせておくべきだと、やかましく言ってくる。親父も僧侶の前では遠慮して、商売のことも見習えとは言うけれども、母などは陰では、あの僧侶が言うことはとても腹立たしい、「主人の子を粗末に扱って、我が子や孫に言うように、余計なお世話をして、人に嫌われ、何だって長生きしているのだろう」と言うけれども、親父は何か恐れていることがあるのか、僧侶が言うことには、一言も返答しないで聞いてばかりいる。」

(梅岩)
「家業のことは番頭や奉公人に任せ、遊芸に忙しいと言う。お前が今、安楽に暮らせるのは、家業のおかげではないのか。職分(自分の仕事)を知らない者は、禽獣にも劣る。犬は門を守り、鶏は時を告げる。武士で言えば、馬を飼っているほどの人であれば、乗り方を知らないというのはあり得ないことだ。書簡は人に書かせても済む。しかし、自分の代わりに家来を馬に乗せるわけにはいかない。商人であっても、自分の仕事を知らないというのでは、先祖から譲られた家を滅ぼすことになりかねない。その僧侶の言うのもこれである。その忠義ある者の言うことが、お母様の機嫌を損ねるというのは、「金言の耳に逆らう(貴い言葉は耳に馴染まない)」と言うものである。臣の諌めを受け入れるのが真(まこと)の君というものである。それなのに僧侶の長命を嫌うのは、忠臣を殺そうと願っているようなものだ。それでは桀紂(悪虐無道の王)と同じである。不忠の者ばかりが残ってしまったら、家の滅亡もいよいよ近い。伝に曰く、「小人に国家を治めさせるときは、災害が次々に起こる。善はあってもどうにもできない」とある。またお父様も家業のことを言われるのは、僧侶がそう言わせているのだろうと思うのは、大きな間違いである。僧侶が言うことに理があるので、義(良心)に責められて言われるのだ。孟子曰く、「家必ず自ら害(やぶ)れてそして後に人これを害(やぶ)る」。今あなたも職を忘れ、身を害(やぶ)ることをしている。このことが理解できなければ、家を売り果たした後に思い知ることだろう。またお前は短気で常々両親に心配をかけていると聞く。どういうことか。」

(ある人)
「私の短気は生まれつきである。これを直したいとは思うけれども、生まれつきなので仕方がない。けれども両親に世話をかけたことは、ただ一度、田舎の丁稚を抱えていた時に、行き届かない者だったので、ある時殴ったところ、傷を負って泣き苦しんでしまい、ようやく鎮めたが、その傷が癒えないうちに田舎へ帰ると言い出した。その時は両親にも奉公人たちにも大変迷惑をかけてしまった。その後はそのようなことはない。」

(梅岩)
「あなたは生まれつき短気だと言うが、生まれつきに短気ということはあり得ない。これはわがままの為すところである。貴人に対してはわがままは出るものではない。慎み直せば、直らないということはない。すでにその丁稚を殴った時に、丁稚はお前に怒りを感じ、また恨んだことだろう。非常に恨んで怒ったといえども、主人のことであるから忍びこらえていたのだ。その丁稚を誰か他人が殴ったら、お前に殴られた時のように我慢しただろうか。他人であれば必ず仕返しをしたであろう。けれども主人のことであるから、歯向かったりしなかったのは慎みの為すところである。これをもって見てみなさい。慎んで直らないということはないのだ。まして父母にこの慎みがなければ、畜類と変わるところはない。また両親の世話になったのは、ただ一度だと言うが、一度でも軽いものではない。丁稚を殴って血が出た時の、両親の心を察してみなさい。人の子に傷を付ければ、その傷を恐れるのみならず、もし死んでしまったとしたら、お前の命を狙われることを恐れて苦しむことになる。(中略)お前の両親も恐れ痛むこと、身に釘を打たれるようなものであっただろう。一度に五歳は歳をとるような気持ちだったに違いない。老いは死の本(もと)である。刃をもって殺さずとも、殺すことに何の違いもない。その丁稚がすぐに死んでいたら、お前の身に罰が与えられていただろう。もしそうなっていたら、「一朝の怒りにその身を忘れて、もってその親に及ぼす」。これより大きな不孝はない。」

(ある人)
「前にも言ったように、短気は良くないことはわかっているので、これは直したいと思う。親の心を痛めていたことは、それほどまでとは思っていなかった。知らなかったのだから、仕方がない。また、親切にするところは、精一杯尽くしているつもりだ。常に親父は酒を好み、飲み過ぎることが多い。その際はうだうだと長話をし、寝ることを知らない。母なども難儀に思っている。そのうえ二日酔いになって苦しむので、身を知らない酒の飲み方だと思い、以後は控えるように諌めたりしている。このようなことは親を思って言うのだから、孝行と言えるのではないか。」

(梅岩)
「お前の言うところは、子たる者の道に背いている。易に「家人に厳君あり」とある。妻子から言えば、家の主人は君主のような存在だ。そうであれば、母もお前も家来と同じである。家来の身として、自分が退屈するからといって、主人の楽しみ事を止めさせるということは、法においてあるべきではない。またお母様が難儀に思うというのは、お前が道に背くのみではなく、お母様までも女の道に背かせている。重々の不孝、数え上げてもキリがない。我が身を修めることもできていないのに、他人に何かを言うべきではない。ましてや親に意見するなどもってのほかである。さて、またお前の使っているお金は、どこから出てきたお金か。」

(ある人)
「親たちからは小遣い金を渡されているけれども、これは一ヶ月も持たない額であるので、足りない分は番頭や奉公人たちに頼んで受け取っている。それでも色々なことを言って、思うほどは渡さないので、今度は母に言って五両(今のおよそ十万円)や三両ずつもらい、そのうえまだ足りなければあちこちで五両や十両を借用している。けれども、二、三年のうちに親たちが隠居してしまえば、そんな借金はすぐに返せる。他人もそれを知っているので、五十両、百両を借りることは容易いことで、何の世話もないことだ。」

(梅岩)
「お前の言うことを聞いていると、すでに家を滅ぼす前兆が出ている。そのわけは、まず親から渡される小遣い金は、天の与えるお前の禄(給料)である。その禄を十分の一にも足りないと言うのは、法を知らない奢り(贅沢)者である。天が奢り者を許すはずがない。また足りない分は番頭や奉公人に頼んで受け取ると言う。その金銀は番頭たちのものか、お前のものか。自分のお金を自分で稼ぐこともできないのに、手をついて番頭たちに求めるなどということはあってはならないことだ。主人が命令を出し、家来が持ってきて渡すのが筋である。それを主人の方から手をついて求めるというのではまるで逆さまである。お前はついには財産を失い、番頭たちの家に養われるようになる兆しがある。それでもなお足りないときはお母様から内緒のお金をもらうと言う。お母様はお前からお金を与えて養うべきであるのに、かえってお金をせびるとは。女は多くのお金を蓄えてはいないものだ。おそらくお母様も親兄弟から借りてお前に与えているのだろう。このような苦労をかけて、それを知らないでいるのは実に悲しいことだ。まだそれでも足りない時は、他人より借用すると言う。自分の財産がありながら、他人の顔色を伺う。これはお前の勢いが衰えていく前兆である。他人はお前の家屋敷をあてにして貸すのであるから、ついにはお前の家は人の物となるだろう。天がお前の財産をひっくり返そうとしている兆しが見える。(中略)さてまた、月に一、二度の遊びに、なぜそんなにたくさんのお金が必要になるのか。」

(ある人)
「それを不審に思うのはもっともだ。例を挙げて言えば、芝居の顔見世ごとに桟敷を二、三軒借りると、それ相応の出費になる。詳細はいちいち言わないが、思いのほか出費がかさむものだ。この味わいは学問ではわからないところのものだ。」

(梅岩)
「芝居の顔見世一度に桟敷を二、三軒も借りると言う。そこに呼ぶ客というのは、その場でかかる接待の費用だけでなく、さらに金銀を出して呼ぶ客(芸者や幇間)なのだろう。その金銀の出る客を、二、三軒の桟敷いっぱいに置けば、親の渡す小遣いでは足りなくなるのも当然である。全くもって世に稀な役立たずとはお前のことである。家の番頭たちが、一分二分五厘三厘を争って商売をなし、汗を流して儲けた金銀を、一度に浪費することは、家の人々の血肉を吸い尽くすのと同じことである。(中略)お前は家を思う番頭たちの心を痛めている。(中略)恐るべきことだ。人としての道をもって言えば、その一日で浪費する金銀を家内の者に恵めば、お前の志を神のように思うだろう。神のように思われなくとも、主人の手本となるべきところなのに、お前のような者は、必ず家内においてはケチ臭いはずだ。両親はこれを見て、あのケチ臭さであれば外でも余計な金は使うまいと思っていて、まるで津波にあったかのように、家屋敷を一度に取られる時の痛ましさよ。さてまたこのような浪費を、お前のお供の者は、家内の者に話したりはしていないのだろうか。」

(ある人)
「そこには抜かりはなく、お供の者たちには小遣いをやり、堅く口を閉じさせているので、家内の者には少しも知られていない。」

(梅岩)
「お供の者に口を閉じさせているので、家内には少しも知られていないと思うのは、まことに愚かである。お前の悪事は、自分で言い出す前から天下に明らかである。中庸に、「隠れたことはかえってよく見えるものだ」とある。形になって現れていなくても、兆しはすでに動いている。兆しが動いていれば、やがて明らかとなる。人は知らないと思っていても、お前の心はこれを悪事だと知っている。知っているからこそ口を閉じる。悪事と知っているならなぜすぐ止めないのか。孔子曰く、「義を見て為さざるは勇無きなり」。そのうえ、お供の者は遊興での金の使い方を見覚えて、また、家内の者へ嘘を言うのを聞き習い、成人した後お前の教えた通りを守り、金銀を盗み使って、家の金を使い込む奉公人になるだろう。これはお前の導きによって人を害するものであるから、このような奉公人になったとしても、お前は文句を言えないはずだ。そして家の金を使い込むようになれば、保証人にその奉公人を預けて難儀をさせることになる。このように主従ともに放埓(道に外れた行いをすること)にして悪事をなせば、お前の家が滅びることはもう目前である。(中略)衛の霊公は無道なれども、三人の臣を用いたために、国を保つことができた。お前の家に僧侶がいるのは、衛に三人の臣がいるようなものだ。それなのに僧侶のが死ぬことを願う。僧侶が死ねば、家内はもっぱらお前の命令に従って、ついには家を滅ぼすだろう。けれども心というのは変わることができるものである。お前が今までの過ちを納得して改心するときは、たちまち転じて善となり、孝となるだろう。(中略)そうすれば、道に入って、家は長く栄えることだろう。」

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