石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(十四)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「浄土宗の僧、念仏を勧める」

「ある浄土宗の僧が常々(梅岩のところに)来ていたが、ある時来て、」

(ある浄土宗の僧)
「あなたは儒者であるので、仏教を勧めるわけではないけれども、世の中は常に移り変わるものでもあるし、時間のあるときなどに、百回や二百回ずつでも念仏を勤めれば、死後の頼りともなるだろう。儒教においては聞いたことがないような生死に関する大事(秘伝の奥義)も、仏教にはあるから言うのである。」

(梅岩)
「お気遣いは誠にありがたい。さてその儒教にない大事とは、どういうことか。」

(ある浄土宗の僧)
「まず儒教、仏教ともに、勧善懲悪の教えはよく知られていることであって、大した違いはないだろう。それにしても、儒教には教えの届かないところがある。」

(梅岩)
「教えが届かないというのは、孔子の言う「至って愚かで変わりようがない者」だからなのではないのか。」

(ある浄土宗の僧)
「その愚か者は、目も見え、耳も聞こえ、口にものを言う者なのであれば、教えは届くことがある。愚かな者でも仏前や神前に向かい、これは神、これは仏と教えれば名前は覚える。このように、この程度の教えであればそのような者たちにも届くのである。どうしても教えの届かない者にも届かせることのできる伝授がある。その伝授というのは、たとえ目も見えず、耳も聞こえず、ものを言うこともできない者でも救い、往生させるものなのである。これをもって見れば、儒教には欠けているところがある。現世のことばかりで、死後を救うことはできない。」

(梅岩)
「あなたは救うというが、その救いを必要とするような人々の罪は、何によってできたと言うのか。」

(ある浄土宗の僧)
「その罪というのは、人々は物を見て、執着の念を起こし、何かを聞いては、喜んだり怒ったりし、何かを言うときには、人を非難し怒らせるなど、その他様々な罪を作ってしまうもので、その罪は数えてもキリがないほどだ。このような罪から人々を救うということである。」

(梅岩)
「それであればここに君(主)を殺し、親を殺した者がいるとしよう。その者は罪を逃れることはできない。その者をも助けるべきだろうか。これも助けるのであれば、届かないところへも届かせると言えるだろう。助けることはできないと言うのであれば、三重病人(見えず、聞こえず、話せない人)も助けることはできないことになる。そのうえ三重病人は見たり聞いたり言ったりすることがないのであれば罪はない。罪のない者に助けはいらないはずだ。そのほかに何か助ける理由があるのか。」

(ある浄土宗の僧)
「大いにある。三重病人として生まれるということは過去の因縁が原因である。これを助ける伝授がある。三世(前世、今世、後世)を兼ねて人を救うということは、儒教にはないのではないか。」

(梅岩)
「そのような教えは伝わってきたことはない。天地の間に生まれる者は、天を父とし地を母とし、自ずから生じる。朱子は、「天はすべての人に仁義礼智の性(本来の心)を与えた。けれども人々が受け取った気質はそれぞれ異なる。」と言った。今の世に人として生まれた者には、みな五常五倫の教えが備わっている。君臣の義、父子の親、夫婦の別、兄弟の序、朋友の信、これをよく行い、仁義礼智の性を全うし、天命に至らしめるというのが儒教の教えである。草木は天の道に背くことがないので教えは要らない。人は喜怒哀楽の情によって天命に背く。ゆえに教えをなして人の道に入らせる。もとより見たり聞いたり言ったりしなければ罪はない。罪のない者は赤子と同じである。赤子は教えなくても無知の聖人である。そもそも聖人は見るにあたって心がなく、聞くにあたっても心がなく、言うにあたっても心がないので、「赤子の心を失わない者は聖人である」と孟子は言っている。これはまた三重病人にも似ている。聖人の教えは、罪がある者はこれを正す。罪がない者をどうして正すことがあろうか。さてあなたに聞いてみよう。各地に庚申というものがあり、そこには、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が祀られている。これを三匹合わせれば三重病人だが、それを仏菩薩として人に拝ませている。それであれば三重病人も、仏菩薩に近いものであるのに、伝授がなくては救いがたいと言うのは、どういうことか。そのうえ、円光大師(法然)は、「念仏のほかに奥深いことがあったなら、二尊(釈迦と弥陀)の憐れみに外れ、本願に漏れるだろう(救われないだろう)」と一枚起請で言っていると聞く。一枚起請では奥深いことはないと言い、今あなたは、伝授で大事(秘伝の奥義)を伝えると言う。これは大師の教えと違うのではないか。儒教にはそのような秘伝の奥義は必要ない。」

(ある浄土宗の僧)
「それであればあなたは、代々伝えられてきた大事を、みな偽りだと言い、非難すると言うのか。どういうことか。」

(梅岩)
「どうして理由もなく他の教えを非難するだろうか。念仏宗においては、西方極楽へ往生し、かの国に至って、如来の説法を聞いて悟りを開き、成仏するという教えである。あなたのように導師となる者は、ここのところをよくよく考えて疑問を解いておくべきだ。仏教では、「迷うがゆえに三界の城壁の中をさまよう、悟るがゆえに十方は開け空となる、本来東も西もない、どこに南北があろうか」と言う。このようであれば、かの国(極楽浄土)というのは、ただ心の浄土ということである。浄土というのも自分の心のことなのである。(中略)「世間には心が乱れて濁った者が多く、正念を持つ者は少ないので、人々の心を一筋に向かわせるために、西方を極楽と指して教える」と言うことは明白である。そうであれば極楽を西方と教えるのは、愚かな者に説く際の教えにすぎないのであって、優れた人々には十方が仏土であることは明らかである。師範となる者は特にこのあたりをよく考えておく必要がある。愚かな者たちは死んだ後自分が往くべき道を知らない。自分の往生を知ることなく他人を導くことはできない。さて如来の説法というのは、そのまま南無阿弥陀仏のことであると知るべきだ。なぜかと言えば、口に唱える南無阿弥陀仏が耳に入り、一回の念仏で一念の悪を消し、二回の念仏では二念の悪を消す。悪念が死んで善心が生まれれば、これがすなわち往生である。往生に三義(三つの概念)を立てるが、その中の一つを挙げて言えば、往とは心のようなものである。(自分の本来の)心に生(な)るのだ。(本来の)心(往)から生(な)ることをもって、往生となすのである。念仏を唱える者も、初めは煩悩を嫌がり離れたいと思って、極楽往生を願って弥陀を念じるのだ。それから年月が経つと、南無阿弥陀仏と唱えるのも口をついて出るようになり、ついには余念他念が全くなくなり南無阿弥陀仏ばかりになれば、往くことなく南無阿弥陀仏に生まれるのだ(往生)。南無阿弥陀仏になれば、自分というものはもはやない。自分がなければ虚空のようである。虚空に南無阿弥陀仏の声があって、唱えればこれがすなわち阿弥陀仏である。阿弥陀仏が自ら阿弥陀仏と唱えるのは(極楽浄土の)説法に他ならない。この説法の功徳によって、弥陀を念じる修行者も、念じられる方の仏も、双方ともに一体となり、苦楽の二つを離れ終わるのだ。離れ終わって無心無念の不可思議となる。これを名付けて自然悟道とも呼び、能所不二、機法一体とも呼ばれるのだ。「大原問答」には「有相(身体)の修行(念仏)によって、無相(本来の心)の楽果(安心)に入る。往生(極楽)を見たいという思いを抑えて、無生の理(本来の心に生滅はないこと)に達する」とある。これらのことはどう理解しているのか。阿弥陀経には、「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と言う。その土(極楽)に仏あり。阿弥陀と言う。今現在も説法をしている」とある。現在とは目の前のことである。心の中の浄土、心の中の弥陀であれば、目の前のこの世界がすなわち極楽浄土である。そうであれば現在の説法と言うのは、草木国土はことごとくみな成仏であって、森羅万象は一つの仏であり、柳は緑に、花は紅と分かれて、各々が法を説いているのだ。一心不乱の修行をもってこれに至り、極楽浄土を目前に拝むべきである。これがすなわち諸法実相(本来の姿)というところである。「光明遍照、十方世界(光明は世界をあまねく照らす)。念仏衆生、摂取不捨(念仏を唱える者はみな救われる)」。他の宗派は修行の功を積み、観念、座禅等をもってこの理を悟るのだ。それを苦しい修行をせずに悟りを開かせるゆえに、念仏宗は他の宗派よりまさっていると、あなたも口真似しているではないか。釈迦が法性を悟り仏となったことと、念仏をして法性に至り自然悟道をするのと、その二つに変わりはない。法性に二つはないのであるから、南無阿弥陀仏で浄土宗は事足りるだろう。けれどもあなたのように、伝授がなくては足りないと言うのは、大師(法然)の起請は偽りだと言って破り捨てるようなものである。いかがかな。」

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