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花房東洋「真の愛国者・鈴木邦男」(『維新と興亜』令和5年5月号)

鈴木邦男の天皇信仰は不動であった


 鈴木邦男は真の愛国者だった。真の活動家だった。「変節した」と謗る向きもあるが、彼の天皇信仰は不動であったと信じている。
 鈴木の左翼やリベラルとの交流は、敢えて敵陣に乗り込み、宣撫工作をしていたのだと思う。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の戦法だ。
 私と鈴木との交友は六十年に及ぶ。初めて彼と出会ったのは、昭和三十九(一九六四)年十二月、生長の家本部道場であった。
 私が生長の家の道場で修行をしようと決意したのは、熊本の伯父(済々黌高校校長)の訓育と京都の伯母(生長の家草創期メンバー・白鳩会全国副会長)の神縁によるものであった。
 当初、私は山梨県にある河口湖道場を志望したのだが、ある事情により叶わず、東京都調布市飛田給にある本部道場に行くことになった。
 当道場は、昭和二十三(一九四八)年五月「人間は本来神の子である」という生長の家の真理に基いて、人類光明化運動を担う人材育成の場として開設された。
 道場生になるに当り、道場職員の野尻稔による面接が行われた。野尻は、元関根組(松葉会の前身)の幹部で、殺人の罪を犯し、網走刑務所に服役していた。そのとき、生長の家の聖典「生命の実相」と出会い改悛し、出所して当道場に直行したという経歴の人物であった。野尻のことは、日活から「鮮血の記録」という映画になり、小林旭が演じている。
 野尻は五年後に迫る七〇年安保における左翼革命の危機を説き、そのためには「日本を死守せねばならない」と力説され「君も共に闘おう」と熱く訴えられた。私は、この人について行こうと決意したのである。
 道場での生活は午前四時半に起床、国旗掲揚・皇居遥拝・国歌斉唱の国民儀礼に始まり、聖経「甘露の法雨」奉読・神想観(正座・瞠目・合掌し三十分間、黙想する座禅のようなもの)を行じた後、それぞれの与えられた作業(これを〝献労〟という)につくのである。それが終わると、ようやく朝食にありつくことができた。
 道場の任務のかたわら、私は率先して野尻の個人的な身の回りのお世話をした。そのことで、野尻が持つ生長の家以外の人脈が拡がった。生涯の師となる三上卓の知己を得ることができたのも、野尻の刑務所仲間であった三上の側近・青木哲の縁による。

完膚なきまでに打ちのめしてくれた鈴木邦男


 昭和四十年一月、野尻の提唱により、本部直属行動隊が結成された。第一分隊・学生道場、第二分隊・本部道場、第三分隊・本部とし学生道場生・本部道場員・本部職員の中より選抜された者によって編成された。
 左翼革命阻止の前衛隊として組織された当行動隊の第一回研修会には軍事訓練は素より「模擬論争」という課程があった。それは一人を残りの者全員が「左翼」となって囲み、「天皇」「日米安保」「現行憲法」などについて論争を挑むのである。
 私は、第一分隊・学生道場の理論派に囲まれた。しかし、心意気は誰よりも負けないつもりであったが、体系だった学問をしていないので、言葉に詰り、言い負かされてしまった。
 模擬論争で理論的に完膚なきまでに打ちのめし、私に一念発起させてくれたのが、第一分隊・学生道場の道場長をしていた鈴木邦男であった。当時、鈴木氏は早稲田大学政経学部三年で、生長の家学生会全国総連合に所属し、書記長として活動していた。
 鈴木に論破された悔しさのあまり、私は「この野郎‼」と言って彼に馬乗りになり首をしめた。それでも、彼は冷ややかな顔で笑っていた。
 その悔しさがバネとなって私は谷口雅春師の「限りなく日本を愛す」「日本を築くもの」「我ら日本人として「青年の書」などを読み漁った。そして、早稲田大学に通う練修生の阪田成一(後に青年局長や本部道場責任者となる)から借りた「天皇絶対論とその影響」の文中の「天皇信仰」を何度も何度も筆写したのだった。
 
 天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は 天皇より出でて 天皇に帰るなり。 天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの 天皇より流れ出て 天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。
 天皇は 天照大御神と一体なり。天照大御神は 天之御中主神と一体なり。斯くして天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。 天皇を仰ぎ、 天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』を誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。(後略)

無条件で受け入れられる男


 その後、私は関西において「青年日本の会」を組織し反共運動に取り組んでいたが、昭和四十四(一九六九)年十一月、三上の「岐阜に行け」という一言で、岐阜に転居して活動を開始した。三上が亡くなったのは二年後のことである。
 昭和四十九年(一九七四)八月一日、鈴木邦男と十年ぶりに再会することになる。
 三上の盟友・片岡駿に随行し、静岡県浜松市で開催された全国復元憲法代表者会議に出席したときだ。片岡の神兵隊事件からの同志である中村武彦に紹介されたのだが、中村に随行していたのが、鈴木邦男と犬塚博英であった。
 鈴木との再会は、岐阜の地において孤立無援の運動をしていた私にとって心強いものがあった。同年十月三十日、岐阜市木の本公民館で、第一回大夢祭を開催した。三上の御遺志を踏襲し、その悲願達成のため精進すべく三上の若き日の号である「大夢」を頂き「大夢祭」と命名した。
 鈴木とは、この再会以来、交友を深めてきた。私にとって鈴木は無条件で受け入れられる人物だ。晩年の鈴木については、様々な評価があるだろうが、彼は彼なりの信念と責任において人生を全うした。今は黙して冥福を祈るのみである。

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