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山岡鉄秀「今も続くGHQの日本占領─吉田茂の虚構」(「維新と興亜」令和5年9月号所収)

継続された占領状態


 数年前、占領期にGHQが二度と日本人が立ち直れないように様々な洗脳工作を行い、特に日本人が先の大戦について罪悪感を覚えるように仕向ける工作があったことが話題になった。その工作がWar Guilt Information Program(WGIP)と呼ばれることは噂されていたが、それが実在したことが一次資料で確認できたとして一大ニュースとなった。

 これは、江藤淳による「閉ざされた言語空間」で検証された、占領軍の検閲による日本文化・思想破壊工作の延長であるが、衝撃的であると共に、日本人の占領政策に対する認識を新たにしたと言える。今日の軸のない日本人の在り方や、左翼的思想の跋扈する日本社会の在り方の原因が占領政策に遡れることに日本人はやっと気が付いた。それまでは、ソ連に占領されるよりはずっとましだった、アメリカの占領は人道的で優しかったといった程度の認識が大半を占めていたことを考えれば大きな進歩だったと言える。

 しかし、GHQの占領計画はさらに巧妙であり、日本人が気付いたのはまだほんの一部だった。一番大きなところがすっぽりと抜け落ちていたのだ。それは、1952年における日本の主権回復と独立が、実は名目的なものに過ぎず、その後も占領状態がずっと続いているという厳然たる事実なのである。日本人は完全に騙されていた。そして、積極的に日本の独立を売り渡した日本人がいた。その現実をまだ多くの日本人は受け止められていない。

 1951年9月7日、翌日に講和条約調印式を控えた吉田茂とその一行は、日米安保条約がいつどこで調印されるのか、まだ知らずにいた。講和条約と同時に結ばれるであろう日米安保条約について、吉田は国内で議論されることを避け続けた。質問されても「まだ交渉中だ」と言って逃げた。それは、日米安保条約がなんであるか、吉田は知っていたからだ。

 9月7日の午後11時になって、アメリカ側から日米安保条約調印を翌日、つまり、講和条約調印と同日に行いたいと言って来た。それでも何時にどこでするかは伝えられなかった。これは、条約調印という国家間の外交行為としては異常なことである。結局、翌日8日、講和条約調印式が無事に終わり、時計が正午を指す頃に、アメリカ側から次の連絡が入った。夕方の5時に米第6兵団プレシディオで調印したいというのである。プレシディオとは、サンフランシスコ郊外のプレシディオ国立公園内部、陸軍施設があるエリアのことである。

 講和条約が結ばれた華やかなウオーメモリアル・オペラハウスとは対照的な、下士官用クラブハウスの一室に吉田は池田勇人だけを伴って赴いた。そして、「この条約は評判が悪いから」と言って、自分ひとりだけで署名したのが日米安保条約であった。なぜ、安保条約調印はこのように秘匿されたのか?なぜ吉田茂は自分ひとりだけで署名することを選んだのか?その理由をほとんどの日本人は知らない。

安保条約を締結すれば「暗殺されることは確実だ」

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