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藤井聡「維新は第二自民党なのか」(『維新と興亜』令和5年7月号)

日本維新の会はマーケティング政党である


── 先般の統一地方選以降、日本維新の会が躍進したと大マスコミは騒いでいます。
藤井 まず前提条件として、与党に対する国民の不満の声が存在します。デフレや物価高に対してきちんと対策しない、賃金も上がらない等々、ものすごい不安がある。そこで通常ならば立憲民主党なり国民民主党なりがその不満の受け皿になって支持を伸ばし政治的ダイナミズムを確保していかなければならないのですが、驚くほどこれらの党が支持されていません。したがって有権者は投票する場所がないという状況がずっと続いている状況があります。
 野党になぜ人気がないかと言えば、安全保障に関する議論がないからです。極東において安全保障の問題が深刻化してきており、かつエネルギー問題が重要になってきているのにも関わらず、非現実的な政策を主張しています。そこで、「野党はいけない、でも自民党もダメだ」となった時に、安全保障等の問題については一定程度保守的な主張をしている日本維新の会が、第三の選択肢として、与党、野党への不満の受け皿として伸びてきているということだろうと思います。
 では日本維新の会は政策はきちんとしているのかと言えば、まったくきちんとした政策論を持たない政党です。基本的に彼らはマーケティングを基本としている政党なので、国民受けが良いのは何かということに沿って政策を考えるということを終始一貫続けている政党なのです。その象徴が大阪都構想でした。

大阪都構想は嘘話である


藤井 大阪都構想は、キャッチフレーズとしては大阪人の複雑なコンプレックスに上手に働きかけるもので、古い政治からの脱却というイメージと、東京のような街になるというイメージを醸し出すという意味においてだけは効果的なものでした。
 日本維新の会は、この大阪都構想を実現するために結党したんだと多くの党幹部が繰り返し発言していました。この都構想がまったくの噓話であるということは『大阪都構想が日本を破壊する』(文春新書)などで書いてきましたが、簡単に言うと、大阪都構想は、大阪市を解体して自治権が極めて限定的な特別区に分割するということであって、こんなことをしてしまったら大阪市民の自治の水準が大きく下落し、町の活力は損なわれ大阪市民が不幸に陥るのは火を見るよりも明らかです。それを「二重行政」というマジックワードで政治問題化させたのです。大阪都構想がおかしいということは大人が少し考えればわかることですが、それを受けのいい言葉で政治問題化させました。
── 日本維新の会は本質的にどういった政党なのですか。
藤井 日本維新の会がマーケティング政党だと述べてきましたように、日本維新の会は本質的に自己の勢力を拡張することだけが目的の政党と言えます。政党には日本国民を豊かにするとか、何かイデオロギーを実現するとか、そういった目的を持つことが大前提なのですが、日本維新の会はそういった発想がありません。だから、日本維新の会が大きくなっても、彼らが強くなるというだけで、日本国民にとっての利益は特に考えられないし、日本国家としての繁栄も基本的にありません。仮にそういうのがあったとしても、それは単なる「たまたま」の帰結に過ぎません。
 彼らは「身を切る改革」というけれども、改革して何をするんだ、ということがない。「身を切る改革」というフレーズ自体がマーケティング的に受けがいいから言っているにすぎないわけです。彼らは「議員を削減する」と言いますが、議員を削減したら民意が反映されない傾向が高まります。彼らは「公務員の削減」ということも言っているんですが、 公務員を削減することでどういうサービス向上、行政目的が達成されるかということについては十分な説明は全くなされない。むしろ、公務員の削減というものが、行政サービスレベルの水準の低下をもたらします。
 彼らは「身を切る改革」という緊縮政策を言っておきながら高校無償化といったお金がかかる政策も掲げています。その矛盾には目をつぶりマーケティング的に受けがよく自己の勢力拡大につながるなら何でも言いますし、必要ならば何でもやる。
── 橋下、松井、吉村体制から、馬場代表の体制になり、かつての新自由主義一辺倒の印象から、より自己の勢力拡大にしか関心がない集団と化した傾向があるようにも思えます。
藤井 新自由主義的であることには間違いがないのですけれども、より中和的、折衷的になりました。ではマシになったかというとそうとも言えず、ウイルスが弱毒化し感染力が上がるように、より毒が広がりやすくなったとも言えます。橋下さんや松井さんが中心だったころは、彼らの強烈な個性で一部の熱狂的支持層は出るけれども、反面それに反発する人も出る。それが表に出なくなってきたことでより可も無く不可も無い「自民党的」な存在となり、奈良や和歌山でも勢力を広げてきているということだろうと思います。一挙に破壊するのではなく、公務員の削減など、じわじわと日本社会にダメージを与え自治水準を引き下げる政策を取ることで、被害を受けていると自覚しないまま拡大していくという危険な状態になったともいえると思います。これぞまさに、弱毒化したコロナウイルスのイメージです。私は日本維新の会は今後、自民党と結託する傾向を強めていくと思います。第二自民党のような存在になっていくのではないでしょうか。
── 日本維新の会は近畿圏では無視できない勢力になりましたが、近畿圏以外ではどれくらい伸びるのでしょうか。
藤井 彼らは受け入れられるまで変化しつづけようとするでしょう。
 実は日本維新の会は一つだけ政治的に重要な要素を持っています。それは知、情、意のうちの「意」(ないしは「威」)の部分です。もともと自民党にもこの意があったんです。吉田茂や田中角栄など、切った張ったができる人材がうようよ存在していました。そして政治においては、知が必要であり、情が必要であるのと同時に、意が必要なのです。知は学者に任せればよい面もあるし、情は芸術家や文学者に任せればよい面もあります。しかし意は軍人と政治家にしか担えない。戦後日本は憲法九条並びに日米安保の状況下において意が折られてしまいました。
 したがって五十五年体制当初の頃には明確に存在していた意が、戦前体験を持つ政治家がいなくなるにつれて急速になくなっていき、公務員かサラリーマンのような人物が増えていきました。そして今の日本及び自民党は、憲政史上最も意のない総理大臣となった岸田文雄という人物によって率いられています。菅義偉、安倍晋三、麻生太郎といった人たちには良くも悪くも多少なりとも意がありました。本能的に有権者は政治家に意を求めます。ところがその意が自民党にも立憲民主党等の野党にもない。そこで多少意を持つ日本維新の会が伸びてきたのです。知があるのか情があるのかわからないが、意はありそうだというわけです。いわばヤンキーがクラスでモテるという話と同じ。その意味では気概のある政治家がいなくなったことが日本維新の会の躍進につながってしまったと言えます。
 私は日本維新の会には知がなく情もなく意だけがあるように思え、意だけある人たちが人気を得ていくというのは危険な状況だと思います。だから本来知があり情がある人物が気概をもって政治を行うことで国が治められるわけですが、岸田総理に意がなく、日和見主義で、人の話を聞くと自分では言っていますけれども、あれはそうでなく、「人の顔色をうかがっているだけ」なのです。
── 安倍派の後継者もいつまで経っても決まりません。
藤井 萩生田光一政調会長にはまだ意を幾分持っているのではないかと感じられます。そういう意味では萩生田さんには期待しています。

政治には倫理が必要だ


── 日本維新の会には大阪万博の利権ということも言われています。
藤井 先程から申し上げているように、彼らは政策の中身に頓着せず、ひたすらにマーケティング戦略を優先します。それと同時に外部に存在する権力機構やビジネス界とも当然ながら結託していきます。その帰結としてIRというものがあります。また上海電力との関係が報道されているようなこともあります。彼らも最低限のコンプライアンスについては留意していると思いますが、逆に言うと最低限のコンプライアンスさえ守っていれば何をやってもよいという意識を強烈に持っているとも言えるでしょう。
 したがって、通常の政党は、国民の幸福、国家の繁栄というものを目指すわけですけれども、彼らの政策判断には、国民の幸福とか国家の繁栄というものは一切入っていません。ただ、もちろん、国民の幸福につながると「思われる」ことには最大限の注意は払うでしょうが、それは一般国民の印象レベルの範囲でしかありません。だから彼らの真実を暴く言論活動を目の敵すると同時に法律違反回避を徹底します。
── 『コンプライアンスが日本を潰す』(扶桑社新書)でもこのコンプライアンスの危険性について論じられていますね。
藤井 本来、卑怯を避けるとは何か、国のあるべき中心軸とは何かということを示すことも社会には必要なのです。しかしコンプライアンスは中心軸を示さず良いこととダメな事との境界線に線を引きますから、その境界内で私利私欲を最大化しようとする行動を許容し、むしろコンプライアンスさえ守っていれば何をやってもよいというような私利私欲を最大化することを奨励しているということができます。
── 日本維新の会は大阪のメディアをうまく利用して伸びてきたという面もあります。
藤井 大阪では吉本興業がいわば、東京のテレビ界における「ジャニーズ」のような位置づけになっておりテレビ局はどこも気を使っています。以前橋下、松井、吉村の各氏が同時に出演している番組が放送法の政治的中立性に欠いているのではないかと問題になりましたが、大阪にはそれをよしとする風土が存在しています。
── 藤井先生は、政治家の意や卑怯を避ける、国家や社会の中心軸を見据えるといった精神的価値を重んじられていますが、昨今、政治家以外も含めて、そうした精神的価値に思いをはせるということが少なくなってしまいました。
藤井 かつての政治家は「信なくば立たず」と多少なりともやってきていたわけです。そういう正義感、公正さ、フェアネスやジャスティスを持ち、天下国家、公共の為に身を砕く滅私奉公というベクトルを持たない人間は信頼されないというのが、かつての常識でした。しかし、そういう「信」を尊重する政治家、そして国民がほぼ絶滅危惧種状態にあり、だからこそ日本維新の会が広まってきているのだと思います。人々が正義感、公正さ、フェアネスやジャスティスという本来政治のあるべき姿を取り戻さなければならないという意識の拡大によって日本維新の会は消滅していくでしょう。人々の精神の堕落が日本維新の会の繁栄を導いているのですから。
(聞き手、構成 小野耕資)

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