見出し画像

クリストファー・スピルマン×小山俊樹「アジア主義の封印を解く!」(『維新と興亜』第6号、令和3年4月)

 戦後、GHQはアジア主義を危険思想として封印した。例えば、松岡洋右が昭和十六年に書いた『興亜の大業』はGHQによって焚書され、長らく封印されてきた(昨年復刻)。これらのアジア主義の主張には、連合国の正義を揺るがしかねないものが含まれていたからだ。
 アジア主義はまず左派によって断罪され、やがて親米派によって再び危険視されるようになった。例えばマハティール首相(当時)が提唱した東アジア経済協議体構想が日本国内で議論されていた時期、野田宣雄氏が「危険なアジア主義の台頭」(平成七年一月)を、屋山太郎氏が「時代認識を欠くアジア主義」(同年三月)を書いている。
 果たしてアジア主義は危険思想なのか。そこに見るべき価値はないのか。クリストファー・スピルマン氏(映画『戦場のピアニスト』のモデル・原作者ウワディスワフ・シュピルマン氏の子息)と小山俊樹氏に対談していただいた。
 満川亀太郎研究のパイオニアとして知られるスピルマン氏は、アジア主義研究の発展に大きな貢献をしてきた。また、ドイツ人研究者のスヴェン・サーラ氏とともにアジア主義思想についての英文論文兼史料集の編集にも尽力してきた。一方、昨年『五・一五事件』(中公新書)でサントリー文芸賞を受賞した小山氏は、日本近現代史の研究を牽引している。
 二人の議論から見えてくるアジア主義の真実とは。

全面否定されたアジア主義
── 敗戦後、アジア主義は「日本のアジア侵略の道具として利用されたに過ぎない」と全面否定されてしまいました。「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」だという歴史観を日本人に植え付けたいアメリカにとっては、アジア主義の本当の姿が明らかになることは不都合だったのだと思います。
スピルマン いわゆる日本の進歩的知識人は、アジア主義は「ファシズムや軍国主義の手先」だと断罪しました。例えば、丸山眞男は「大亜細亜主義はファシズム及超国家主義の特質の一つである」と書きましたし、丸山の影響を受けた松沢哲成もアジア主義をファシズムの一部として扱いました。アジア主義は研究に値しない思想として黙殺されてきたのです。こうした中で、一九五〇年代から竹内好がアジア主義の研究を進めました。ただ、竹内もアジア主義は独立した思想としては存在しないと説いていました。
小山 竹内は、日本のアジア主義を「それ自体に価値を内在させているものではない」と論じました。アジア主義は、民主主義とか社会主義といった理念ほどには思想的内容がなく、普遍的な価値観を欠いているとの見解です。それゆえに、アジア主義は「かならず他の思想に依拠してあらわれる」と説いたのです。
スピルマン 欧米の研究者たちは、竹内のアジア主義研究に基づいてアジア主義を理解していました。そのため、欧米の研究者は、吉野作造に代表されるような進歩的知識人や大正デモクラシー、幣原外交などについてはかなり詳しく研究していましたが、アジア主義など、それ以外の思想についてはほとんど無視していました。
 こうした中で、プリンストン大学名誉教授を務めたマリウス・ジャンセンが昭和二十九(一九五四)年に発表した「孫文と日本人」は極めて例外的な研究と言っていいでしょう。ジャンセンは、孫文を通じて、頭山満や宮崎滔天といったアジア主義者を扱ったのです。しかし、その後もアジア主義は否定的に理解されていました。ところが、冷戦終結後、アジア主義研究にも新たな動きが出てきました。
 例えば、京都大学教授の山室信一氏が平成五(一九九三)年に『キメラ 満洲国の肖像』を書いています。私は、平成九(一九九七)年から拓殖大学百年史編纂に携わり、戦前、同大教授も務めていた満川亀太郎の研究を進めました。
小山 アジア主義に関しては、橋川文三による研究もありましたが、それを継承した研究は細々としか続いてきませんでした。
スピルマン 竹内にしても橋川にしても、アジア主義を論じましたが、満川亀太郎を無視していました。また、鹿子木員信も無視してきました。
小山 ただ、北一輝の思想研究などで功績のある宮本盛太郎先生は、それまで取りこぼされてきたアジア主義者、国家主義者の実像を探るような研究を手がけました。例えば、昭和五十九(一九八四)年に出版した『宗教的人間の政治思想 安部磯雄と鹿子木員信の場合』で鹿子木を取り上げています。
スピルマン これは画期的な研究だったと思います。ただ、そうした研究をさらに発展させることはありませんでした。

満川亀太郎が説いた人種平等という普遍的価値
── 竹内好はアジア主義自体には思想がないと断じました。アジア主義には普遍的な思想はなかったのでしょうか。
小山 アジア主義者には、人種平等を主張した満川亀太郎のようなケースもあります。アジア主義にも普遍的価値観を志向する動きは確かにあったと思います。
スピルマン アジアの解放を夢見た満川は、蔑視され抑圧されていた世界中の有色人種から目をそらすことはできませんでした。その根底にあるのは、あらゆる不公平や不正義に対する怒りです。満川は子供の頃から貧しい環境で育ち、搾取のない世界を求めるようになったのでしょう。
 アジア人差別に反対するなら、黒人差別にも反対すべきだという考え方です。彼は黒人問題に関心を深め、大正十四(一九二五)年には『黒人問題』を刊行しています。文芸春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏から聞いた話では、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行きました。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったそうです。
 満川は女性問題についても、当時としては先駆的な考え方を持っていました。彼が属していた老壮会には、権藤成卿の妹の権藤誠子が参加していましたし、満川らが設立した猶存社の機関紙『雄叫』には女性の執筆陣もかなり加わっていました。
小山 満川はアジア主義者の中では例外的な存在です。アジア主義者全体が普遍的な価値を発展させたとは、言い難い面があります。ただ、満川のような普遍的な思想の模索は、大東塾の影山正治にも見出すことができます。昭和十一(一九三六)年にエチオピアを併合したイタリアの使節を、国内のアジア主義者が歓待する様子を見て、影山は昭和十三(一九三八)年、「神州日本に一人の義人なきか」「昨日はエチオピアを支援し、今日は満洲国承認と引換にエチオピア侵略を承認す。どこに皇国日本の信義ありや、どこに神国日本の意義ありや」と痛憤しているのです。
 満川や影山は「アジア主義者こそアフリカの植民地・人種問題に目を向けるべきだ」と唱えたのです。これらの主張は、ある種の普遍性を備えた人種差別批判だったと思います。

明治の国策とアジア主義
── アジア主義が生まれた理由の一つは、欧米列強のアジア侵略だと思います。アジア主義団体は、すでに明治十年代から活動していました。
小山 玄洋社が設立されたのは明治十四(一八八一)年とされています。それに先立ち明治十三(一八八〇)年に興亜会が設立されています。
 急速な欧化路線に反対する考えは、明治政府内にも存在しました。明治二十年代の条約改正反対運動においても、政府内に反対派がいました。ただ、これまでそうした反対派はナショナリストとして括られてきましたが、彼らにはアジア主義的な側面がありました。ナショナリストであると同時に欧米に対抗してアジアの連帯を模索するという考え方は、明治三十年代までは無理なく存在し得たということです。東亜会と同文会などが合流して、明治三十一(一八九八)年に結成された東亜同文会もそうした流れの中に位置づけられます。
 明治三十二(一八九九)年には、フィリピン革命への支援を要請された宮崎滔天らが、武器、弾薬を布引丸でフィリピンへ送ろうと試みています。滔天は、その後シャムへ赴き、孫文が広東省恵州で試みた武装蜂起に関与するなど、アジア連帯を実践しました。日英同盟が締結された明治三十五(一九〇二)年、滔天は自らの半生を綴った『三十三年の夢』を著述しています。滔天のような在野のアジア主義が受け入れられる空気は残されていたのです。
スピルマン 伊藤博文に代表される明治政府の考え方は、列強との関係を最も重視していくしかないというものでした。その中で、政府の政策を公然とは批判できないが、アジアとの連携を模索する必要があると考えていた人もかなりいたのではないでしょうか。岩倉具視にしてもアジアとの連携が必要だと繰り返し主張していました。
 明治三十年代には、ロシアの脅威というファクターも非常に重要でした。近衛篤麿を会長とする対露同志会など、ロシアとの早期開戦論を唱えて運動したアジア主義勢力もいました。
── 篤麿が明治三十六(一九〇三)年に旗揚げした「桜田倶楽部」は、新たな政治勢力と目されていましたが、日露戦争勃発直前の明治三十七年一月、篤麿は四十歳の若さで死去しています。仮に彼が生き続けていれば、アジア主義路線が国家政策として採用される可能性があったようにも感じます。
小山 ただ、明治政府の主流は、福沢諭吉の「脱亜論」に象徴されるように西洋文明への接近、富国強兵を国家目標とした欧化主義志向でした。アジア主義的な言説は、容易には浸透しませんでした。明治二十八(一八九五)年、竹越与三郎は「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」で、亜細亜という語に意義はないと主張し、人種の差を超えようとする日本人に、人種的な区別は不要だと説いていました。
 明治の政治指導者の間では、「他の国の世話を焼いている場合ではない」という考え方がずっと続いていたと思います。アジア主義者はそうした政府との戦いでもあったわけです。一般の国民にまではアジア主義の理念は理解されていなかったと思います。

誤解されている内田良平の黒龍会
── 日本が国力をつけるにつれて、日本政府の政策と在野のアジア主義の矛盾は深まっていきます。
小山 日露戦争前後は大きな曲がり角、分岐点だったと思います。日露戦争後、日本は東アジア地域の大国として自他ともに認める存在となりました。同時に、日本は欧米から警戒される存在となったということです。
 一方、日露戦争における日本の勝利に勇気づけられ、アジア各地から独立を目指す革命家たちが日本を訪れるようになりました。明治四十(一九〇七)年五月には、ベトナムのファン・ボイ・チャウが留学生を連れて来日しています。チャウは日本への留学を奨励する「東遊運動」を進め、ベトナムからの留学生が急増しました。また、日露戦争後、アジア主義者の視野は世界に向い、西アジアを含めたアジア、あるいは非白人国家との連帯という考え方も浮上します。
 しかし、列強との協調関係を重視する日本政府はアジアからの留学生に背を向けました。フランスの妨害によって留学生は相次いで帰国を余儀なくされ、運動は挫折しました。
── 列強との協調を重視する政府に対して、頭山満らは一貫して亡命アジア人に救いの手を差し伸べました。チャウだけではなく、朝鮮の金玉均に始まり、中国の孫文、インドのビハリ・ボースなど、祖国独立を願うアジア各国の独立運動家や革命家たちを支援しました。
小山 しかし、日本政府は明治四十三(一九一〇)年に朝鮮半島を併合した段階で、アジアとは連帯ではなく、アジアの中での列強という立場を選択していくわけです。皮肉なことに、アジア主義という言葉が定着するのは、アジアでの日本の優越的立場が固まってからです。
スピルマン アジア主義的な観念や思想は明治維新以前からあったように思います。例えば、会沢正志斎などにもそうした思想が窺えます。ただ、明治期には、稀な例としては、アジア主義という言葉を用いられましたが、定着はしていませんでした。興亜、同文同種、大東合邦などの用語が用いられていました。また、近衛篤麿はかなり早い段階から「アジア・モンロー主義」という言葉を使っていました。
 アジア主義という言葉が定着したのは、大正二(一九一三)年頃からです。この年、大住舜という哲学者が『新思想論』の中で、「全亜細亜主義」という表現を使っています。また、大正五(一九一六)年には、大隈重信系の代議士・小寺謙吉が『大亜細亜主義論』を出版しています。
── 日本の優位性、指導性を含む言葉としてアジア主義という言葉が定着したことが、アジア主義に対する誤解を深めたように思えます。特に、内田良平らの黒龍会は、戦後、韓国併合を強行した日本政府の先兵だったと厳しく批判されました。
小山 それは、内田らの志を知らない言説だと思います。内田らは、李容九らが設立した「一進会」とともに、日韓の対等合邦を目指していました。この時点でも、広い意味での「連帯」への志向は存在していたのです。しかし、日本政府は最終的に対等合邦を退け、韓国併合を断行しました。
スピルマン 黒龍会は、韓国併合後、日本政府の朝鮮統治を度々批判していました。
小山 韓国併合に至る過程には、様々な曲折がありました。当初日本人は、朝鮮が日本のように自立し、清国と対等の立場に立てるレベルまで近代化することを期待していました。しかし、当時の朝鮮の人にはそうした経済的、政治的な実力が足りませんでした。その失望の裏返しとして、日本では「日本が代わりに朝鮮を近代化すべきだ」という考え方が拡がりました。
 また、明治の日本人にとって、朝鮮半島情勢は安全保障上、最大の問題でした。朝鮮半島を他の国が制圧することは、日本の安全保障に極めて深刻な事態を招くからです。それを絶対に防がなければならないというのが、明治政府の基本方針でした。それについては、在野も同じです。黒龍会が政府の政策をある程度容認せざるを得なかったのは、そうした安全保障上の現実があったからだと思います。

ここから先は

2,419字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?