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梅澤昇平「知られざる社会主義者の國體観」(『維新と興亜』令和5年3月号)

「天皇制」廃止と統一戦線を潰した西尾末廣


── いまなお「社会主義者は國體や皇室を否定する」という誤解があるように思えますが、梅澤さんが『皇室を戴く社会主義』(展転社)などの著作で指摘しているように、社会主義者の皇室観は非常に多様だったのですね。
梅澤 日本で皇室が形を変えても存続したのは、征服王としてでなく祭祀王として無私の精神に支えられた皇室の伝統、それに対する国民の畏敬の念が強かったからです。多くの社会主義者たちがこうした国民感情に共感していたのです。
 例えば、賀川豊彦は「天皇ファン」と呼ばれ、麻生久らは天皇を担ぐ「錦旗革命」を画策し、浅沼稲次郎は毎朝宮城遥拝をしていました。後に浅沼は社会党の右派から左派に流れていきますが、皇室尊重では一貫していたようです。
 日本社会党は、昭和二十(一九四五)年十一月二日に設立されましたが、その設立大会や準備会では、浅沼が国民儀礼として宮城遥拝、国歌斉唱を進行していました。
 ただ、社会党ができた時には右から左までいて、二つの点で揉めました。一つは、「天皇制」を維持するか、廃止するか。もう一つは、共産党との統一戦線を組むかどうか。この二つの問題をめぐり、大議論になったのです。
 この時、社会党結成の中心メンバーだった西尾末廣は、帝国憲法を見直すのはいいが、天皇制については手をつけさせないと主張し、押し切ったのです。西尾は、結党大会の時のことを次のように振り返っています。
 「私はこのとき、理論よりも国民感情として、また党の発展のためにも、天皇制を認めるべきであることを強く主張した。……私は現に、詔勅によって混乱なしに終戦ができたことを胸にしみて感じていた。また混乱期における天皇の存在の意義についても、確信をもっていたからである」
 「天皇制」の問題と連動していたのが、共産党との統一戦線でした。共産党の統一戦線の最大の眼目は、「天皇制」廃止だったのです。宮本顕治は戦後の「前衛」創刊号の巻頭言で、「天皇制」廃止のための統一戦線が必要だと明言していました。西尾は戦前から労働運動をずっとやってきた体験から、共産党は信用できないと考えていました。

皇室廃止の危機


── 当時、GHQは「天皇制」の廃止を求めていました。
梅澤 敗戦直後のギャラップによる世論調査を見ると、アメリカでは天皇をギロチンに、終身刑に、島流しに、戦犯で裁判になどが圧倒的多数を占め、無罪論はわずか四%でした。
 こうした中で、GHQの初代労働課長を務めたロシア人のカルピンスキーは、来日するとすぐ労働運動の指導者を呼びました。総同盟系の松岡駒吉と西尾末廣、左派の加藤勘十です。カルピンスキーは、いきなり「労働運動の前に天皇制を廃止してはどうか」と迫ったのです。加藤は賛成しました。これに対して、松岡は「とんでもない」と言い、西尾も「これは国民の支持を得られない」と発言して反対したのです。
 こうした動きによって、「天皇制」と統一戦線の流れは決まったです。だから、共産党の歴史の中では、西尾と松岡はとんでもない連中として批判されています。
 西尾らの辣腕がなかったらどうなっていたでしょうか。ここで想起されるのが、同じ敗戦国のイタリアです。イタリアでは、敗戦後の一九四六年に国民戦線が作られ、共産党、社会党らが主導権を握り、保守系も分裂してしまいました。その結果、王制廃止を問う国民投票が実施されたのです。そして、廃止に賛成が五四%、反対が四五%で、八十五年続いてきた王政が倒れてしまったのです。日本でこうしたことが起こらなかった一つの理由は、まさに社共の統一戦線を阻止したことです。西尾らが頑張ったこともありますが、それを支えたのは天皇に対する国民の強い畏敬の念でした。

皇室問題を主導した受田新吉


── 社会党は分裂し、昭和三十五(一九六〇)年一月には民主社会党が結成されました。民社党は皇室の問題にどのような姿勢を示していたのでしょうか。
梅澤 民社党において皇室問題で中心的な役割を果たしたのが、党中央執行委員などを務めた受田新吉です。彼は山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身の教員で、県教職員組合副委員長を経て政界入りしました。日本社会党を経て、民社党結成に参加しています。皇室問題は主に内閣委員会で審議されますが、受田はこの委員会の理事を務めていました。
 受田は紀元節復活でも、重要な役割を果たしています。「建国記念の日」を制定するための祝日法改正案は社会党などの反対によって成立を阻まれていましたが、佐藤栄作内閣時代の昭和四十一(一九六六)年に再び提出されました。しかし、「建国記念の日」の日付をめぐって紛糾してしまいました。そこで、受田は日付については審議会を設け、そこでの専門家の議論に委ねるという修正案を出し、結局「二月十一日」に落ち着いたのです。
 受田はまた、元号法制化についても、社会党時代の昭和三十四(一九五九)年に「元号の法的根拠がなくなれば、『昭和』以後は元号がなくなる。これでは日本の伝統がなくなる」と質問していたのです。「昭和の日」の法制化も、自民党の有志議員と受田らの民社党の有志議員の連携によって実現しました。
 国事行為があるために天皇が自由に外国を訪問できないことを問題視したのも、受田です。この問題について、彼が昭和三十七(一九六二)年に国会で質問したのがきっかけとなり、その二年後に「国事行為の臨時代行に関する法律」が成立したのです。こうして、昭和四十(一九六五)年に天皇皇后両陛下の訪欧が実現したのです。
 昭和天皇の崩御をめぐっても、民社党の対応は高く評価されました。天皇の病状が悪化してからは、党本部職員は毎晩交代で泊まり込みの体制をとりました。私も幾晩か泊まり込みました。万一の場合、マスコミに謹話を送付すること、党幹部に連絡をとることが任務でした。謹話の作成は、通常の談話の作成とは重大性が異なります。この謹話の作成に当たったのが、中村信一郎氏や青木英実氏でした。崩御で各党が謹話を出ましたが、民社党のそれは格調の高さで好評を博したのです。
 大嘗祭は平成二(一九九〇)年十一月二十二日から二十三日に行われました。当時、野党各党は「大嘗祭は宗教儀式であり、国が関与することは、現憲法の国民主権、政教分離の原則に反する」(社会党)などと批判し、大嘗祭に政府が公費を支出することに反対していました。
 しかし、民社党は「大嘗祭は国民のひとしく慶びとするところである。皇室の伝統行事であり、布教を前提としていないので、国費をあてても憲法の政教分離原則に抵触しない」との談話を出して出席したのです。また、八王子市の武蔵野陵墓で挙行された陵所の儀に参列したのは政党党首としては、民社党の永末英一委員長ただ一人でした。
 民社党内で皇室の問題を重視していたのは、受田だけではありません。皇室の問題に非常に熱心に取り組んでいたのが、本部統制委員長などを務めた滝沢幸助と、副委員長などを務めた安倍基雄です。彼らは民社党内で、皇室の問題に関して最も熱心に質問していました。
 滝沢は、平成二年には、昭和天皇の諒闇中に国民が新年を祝うのは不敬であるとして、年賀はがきを発行すべきではないと主張しました。また、政界を退いてからも、正かなづかひの會の会長として国語を考える国会議員懇談会の発足に尽力しています。
 民社党が平成六(一九九四)年に解散してから、すでに三十年近くが経ちましたが、皇室を戴く社会主義者の存在に改めて光を当てる必要があると思います。

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