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西村眞悟「八紘為宇実践の系譜」(『維新と興亜』第16号、令和5年1月号)

 我が国が、大東亜戦争の開戦時に発した「帝国政府声明」と、戦争遂行中に開会された有色人種による世界史上初めての国際会議となった大東亜会議にて発せられた「大東亜共同宣言」(昭和十八年十一月六日)に掲げられた人種差別撤廃と諸民族の共存共栄は、共に現在の世界の理念である。
則ち、大東亜戦争において、文明の転換が起こり、欧米の数百年にわたる人種差別とアジア・アフリカにおける植民地支配の時代は終焉を迎えた。よって、我が国は、大東亜戦争の戦闘では敗れたが、戦争では勝利したのだ。そこで、まず、この帝国政府声明と大東亜共同宣言の要旨を次に掲げる。
〈帝国政府声明〉「今次帝國が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんとするに外ならず」
 〈大東亜共同宣言〉「抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて萬邦共栄の楽を偕にするは、世界平和確立の根本義なり。……大東亜各国は、萬邦との交誼を篤うし、人種的差別を撤廃し、普く文化を交流し、進んで資源を開放し、以て世界の進運に貢献す」
 そこで、今や世界の文明の理念となったこの声明と宣言の因って来たるところを振り返ったとき、私は神武
天皇が御創業の際に掲げられた「八紘為宇」の志に行き着き、深い感慨とともに、この日本に生まれた幸せを感じる。そして同時に、日本は、明治維新によって世界史に参入してから、一貫してこの世界史の舞台において八紘為宇の理念の実践者であったとの思いを深めるのだ。よって、その実践の系譜を次に記しておきたい。
 (1)明治三年、西郷隆盛は遙か庄内から薩摩に来た酒井忠篤らに言った(西郷南洲遺訓収録)。
「予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とてそれ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の國に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮ぢやと申せしかば、其の人口を窄めて言無かりき、とて笑はれける」
 つまり西郷は、八紘為宇の志は、ただ日本に留まらず他国、他民族にも及ぶと言っている。この西郷の思いを基に、三年後のいわゆる征韓論に関する政争の真相は、世評とは異なり西郷は軍を朝鮮に出さずに、自分が一人で朝鮮に出向き誠心誠意の我が真意を伝える努力を尽くす所存であったと思われる。
 (2)マリア・ルス号事件
 ペルー船籍船マリア・ルス号は、明治五年七月、マカオから二百三十一人の清国人奴隷を乗せて横浜港に入港した。その時、数人の奴隷が脱走して救助を求めた。それを察知した外務卿副島種臣は、人道主義と日本の主権を主張して、神奈川県令の大江卓に清国人救助を命じた。大江県令は、まずマリア・ルス号の出港を停止し、清国人奴隷解放を条件にマリア・ルス号に出港許可を与えた。
 この事件は、後にロシア帝国による国際仲裁裁判所に持ち込まれ、我が国は始めて国際裁判の当事者となった(全権公使榎本武揚)。裁判長となったロシア皇帝アレキサンドル二世は、ペルーの日本に対する補償金の支払い要求を退けた。この事件は、奴隷を当然とする西洋文明に対する人道主義を掲げた日本の画期的な異議申し立てである。この時、岩倉具視を代表として大久保利通や木戸孝允等は百九名の訪欧使節団を編成して欧州を回っており、日本政府の首班は西郷隆盛であった。
岩倉訪欧団は、全国三百の藩を県にして、それを現在の都道府県に編成して日本を中央集権的近代国家へと変革する廃藩置県の大切な時期に、約二年間日本を離れて欧米を廻っていたのだ。帰国後、彼らは、次のように謳われた。「条約は、結び損ない、金は捨て、世間に対し、何といわくら」
 (3)シベリアからロシア人少年少女八百名とポーランド孤児七百六十五名の救出
 第一次世界大戦中の一九一七年(大正六年)、ロシアのサンクトペテルブルクでロシア革命が勃発し、ボルシェビキの赤軍と反ボルシェビキの白軍の内戦が全土に広がる。この時、日本は、内戦で孤立したロシアの子供達八百人と、ポーランドの孤児達七百六十五名を、ウラジオストックから船に乗せてそれぞれの郷里に送り届けたのだ。まず一九一八年(大正七年)五月、内戦の坩堝となったペテルスブルクから八百九十五人のロシア人少年少女が、ウラルに疎開した。しかし、内戦により、ウラルに疎開したペテルスブルクの子供達も孤立して、「ウラル山中をさ迷う子供達」となった。しかし、救援組織によって、翌一九一九年九月、彼らはウラルから六千キロのシベリアを横断してウラジオストックに運ばれ、安全な施設に収容された。また、シベリアには十九世紀から帝政ロシアによって流刑され、また、連行された二十万人ほどのポーランド人がいたが、彼らは内戦によって荒野を彷徨うなかで餓死、病死そして凍死していった。そしてシベリアに孤立した七百六十五人のポーランド孤児が残された。この孤児達を日本帝国陸軍と日本赤十字は、安全にウラジオストックに移動させて保護した。
その後、ロシア人の子供達を祖国に帰すためには、機雷の敷設された危険な海域を通ることになるので、アメリカを含む各国の船会社が悉く断るなかで、日本の勝田銀治郎(後の神戸市長)が所有する陽明丸(船長、茅原基治)が敢然と引き受けてウラジオストックに入港し、八百名のロシアの少年少女を乗せて太平洋と大西洋を渡って機雷の多く浮かぶ海域を過ぎて、一九二〇年十月十日、フィンランドのコイスビスト港(現ロシア領)に到着して、子供達は郷里のサンクトペテルブルクの父母の元に帰っていった。この壮挙は、不思議にも日本側では茅原船長の遺した「赤色革命余話 露西亜小児団輸送記」しかないが、ロシアには、助かった子供達の孫が「ウラルの子供達の子孫の会」をつくり、その代表の孫のオルガ・モルキナさんが、近年、探し当てた岡山県笠岡市の茅原基治船長の墓に参っている。
ポーランドの孤児達七百六十五人も、計五回の船で日本の敦賀港に着き、東京の渋谷と大阪の天王寺に用意された宿舎に入り、病気の者は治療を受け、全員たっぷりと食べて体力を回復した。そして、孤児達は、横浜港と神戸港からポーランドに向けて帰るとき、大声で「ありがとう」、「さようなら」と叫び、「君が代」と「ポーランド国歌」を歌った。
ポーランド政府は、阪神淡路大震災では日本の孤児六十名を、東日本大震災では孤児三十名を、ポーランドに招待してくれた。平成十四年(二〇〇二年)、天皇皇后両陛下がポーランドに行幸啓された際、ワルシャワの日本大使公邸でのレセプションに、九十二歳と九十一歳と八十六歳の元シベリアの孤児が招待されていた。公邸に入られた両陛下は、真っ先に三人の元孤児達に歩み寄られ、手を取られて「お元気でしたか」と、しみじみと言われた。
 (4)樋口季一郎ハルピン特務機関長と関東軍と満鉄、二万人のユダヤ人を救出せり
 昭和十三年一月、ハルピンでカウフマン博士等が企画した第一回極東ユダヤ人大会が開催され二千人のユダヤ人が集まった。演壇に立った樋口季一郎ハルピン特務機関長は、「ドイツがユダヤ人を追放せんとするならば、その行き先を明示し、予めそれを準備せよ。それをせずして追放するとは刃をくわえざる虐殺に等しい」と演説し、降壇して記者の質問に答えて、「日本人は昔から、義を以て弱きを助ける気質をもっているのだ」と答えた。
同年三月八日、樋口特務機関長は、カウフマン博士から、「ソ満国境の駅オトポールで二万人の欧州から逃げてきたユダヤ人が満州に入れず立ち往生をしている。このまま放置すれば全員凍死する。助けて欲しい。」との懇願を受ける。これに対して、樋口特務機関長は、直ちに決断し、まず満鉄の松岡洋右総裁に会い、特別列車と毛布と食料の用意を頼み、松岡総裁は受諾した。そして、三月十二日、ハルピン駅にオトポール駅から二万人のユダヤ難民を乗せた特別列車が到着し、商工クラブや学校に収容され炊き出しをうけた。もし、極寒の満州における救出が数日遅れたならば、二万人全員が凍死していたであろう。
この日本の関東軍と満鉄によるユダヤ人救出に対し、ドイツのリッペントロップ外相から日本政府に対して抗議があった。これに対して、東条英機関東軍参謀長は、「人道上当然のことである。我が国はドイツの属国ではない」と言い放ち、我が国の閣議も「八紘為宇の精神に基づくこと」とした。

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