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稲貴夫(元神社本庁総合研究部長)「明治維新と神社神道 ④ これからの課題と日本の将来」(『維新と興亜』第11号、令和4年2月発行)

 記紀神話や古代の遺跡が示す通り、日本では人々の暮らしがあるところ、各地で神々の祭りが営まれてきました。朝廷を中心とする国家体制が地方にも及んでゆくに従ひ、神々の祭りは国家の制度の中にも統合され、神社祭祀として、その様式も整へられてゆきました。その後、時代時代において様々な変化はあつたものの、宮中や神宮の祭祀が信仰の中心として人々に意識されてきたことは、まぎれもない事実です。
 故に明治維新に際して新政府は、「神武創業之始」に基づくことを宣言し、祭政一致による国造りを目指して、全国の神社を「国家の宗祀」と位置付け、神祇制度の改革を進めたのでした。しかし、その経緯をこれまで記してきた通り、改革は十年余の間に大きく後退しました。「祭政一致」の理想は国家制度の近代化が進められる中で、「政教分離」との整合性が求められたからです。その結果、神社は国家公共の祭祀を営む場として国の管理下におかれ、制度上は宗教から切り離されました。その過程で、教派神道の各派が宗教団体として独立していくことにもなりました。
 しかし、国の施策として神社は宗教の枠外に位置付けられたものの、神社が宗教であるか否かをめぐつてはその後も様々な議論が続き、神社関係者の間でも大きな課題でした。本号では、明治維新と神社神道をめぐる問題を文化的な背景から検証し、日本国のあり方も含めて、その将来を考へることとします。

神社は宗教であるか
 日本が開国すると、西洋諸国との交流の必要性から、英語のreligionを国語で表現する必要が生じました。今日の「宗教」に該当する国語が存在してゐなかつたからです。明治七年に森有礼らが文明開化の思想を啓蒙する目的で創刊した『明六雑誌』では、宗教に該当する言葉として、「教法」「神教」「神道」などを使用してゐます。当初は執筆者それぞれの感覚で用いてゐたものが、次第に「宗教」に統一されたものと思はれます。語源の上では、「religion」はラテン語の「(神と人を)再び結びつける」といふ意味の言葉から来てをり、神(God)の存在が前提とされてゐますが、「宗教」は仏教の影響で「教へ」が重視されたことが伺へます。
 このやうな経緯から、それまでの日本には、今日の宗教一般を表す概念そのものが意識されてゐなかつたと思はれます。しかし、来日した西洋人が、寺院も神社も、仏教も神道も「religion」の範疇として捉へたことは疑ひ無いでせう。
 西洋諸国では、時に戦争にまで発展したカソリック、プロテスタント間の紛争の経験を経て、国民に「信教の自由」を保障するとともに、「政教分離」を制度として取り入れるやうになりました。宗教的権威から独立した、所謂「世俗国家」「国民国家」の誕生です。
 今日、当たり前に使ふ「宗教」とは、神学、教学の異なる新旧キリスト教の各派が、それぞれ神道や仏教と対峙し、相互に関係する状況の中で意識されるやうになつた概念ではないかと考へます。
 とすると、神社が宗教であるか否かは、問題の設定自体が神社の歴史的な本質とはあまり関係しないやうに思へます。多くの神職が神社を宗教として意識せず奉仕してゐる一方で、例へば国内外の諸宗教関係者と同じ「宗教者」として交流することに、特に違和感を感じてゐないことは、「神職の自覚の無さ」ではなく「宗教」の概念の不確定性と、神社神道の特徴が表れてゐるのだと思ひます。
 ここで日本人の宗教意識について触れておきます。詳細は省きますが、これまで神社本庁が行つてきた意識調査からは、日本人の「信仰してゐる宗教」の内訳は、神道が約四パーセント、仏教が約三十パーセント、創価学会が約三パーセント、キリスト教が約一パーセント、そして「信じていない」が約半数といふ結果が得られてゐます。対象が「神社」でなく「神道」であるとしても、国民の多くが神社を宗教として認識してゐないことは、この数字からも明らかです。

神社神道の未来は
 これまで明治維新と神社神道を主題に考へてきました。今日、神社神道が抱へてゐる課題は、占領下の神道指令や日本国憲法によるものだけでなく、より本質的には、日本の近代化そのものに起因してゐると言へます。明治維新の後、近代化といふ名の西洋化が充分な吟味を行ふ猶予もないまま進められました。当時の日本が置かれた状況を理解すれば、選択肢の無い対応でした。しかし、その後は明治維新に込められた当初の理想が忘れ去られたまま大東亜戦争の敗戦に至つたことが、問題をさらに大きくしたと言へます。
 保守派の代表的言論人であつた福田恆存氏は、近代日本の歩みを「近代化への適応異常」と表現してゐました。もしかしたら現在の日本は、更に加へて戦後体制にも「適応異常」を続けてゐるのではないか、そんな思ひが頭を過ぎります。
 神社の祭礼で、「天下泰平」「万民豊楽」といふ文字が記されてゐる幟旗を見上げたことのある方もゐるでせう。「天壌無窮」「五穀豊穣」などの言葉もよく使はれますが、そこには天地の恵を受けて地域共同体のみならず日本国及び全世界が平和で豊かであること、それが永遠に続くことへの祈りが込められています。
 全国の巨樹・巨木を訪ね歩いた著述家で、奥武蔵に住んでおられた牧野和春さん(故人)は、近所の八幡神社の例祭にお参りしたとき、幟旗に「明治四十一年書」の墨書きがあるのを見つけ、その由来を古老に伺つたところ、日露戦争の戦勝記念で奉納されたものらしい、と返事のあつたことを著書の中で触れてゐます。牧野さんは「万民豊楽」の幟を眼にしたとき、そこに「日本よ、かくあれ」との、歴史を通して変はらぬ願ひが託されてゐることを実感したさうです。氏子からも大勢の若者が出征し、何人かは帰らぬ人となつたと思はれますが、氏子の人たちは平和の回復を尊び、幟旗を通して変はらぬ願ひを伝へやうとしてきたことがわかります。
 牧野さんの体験は今から十年程前の出来事ですが、それ以前から過疎の進む山村をはじめ、人口流動の激しい都市域においても氏子を中心とした神社の運営が困難に直面し、かうした祭りの斎行も厳しくなる状況があります。神社制度以前の問題として、伝統的な地域社会の基盤そのものが崩壊の危機にあるのです。

学んで考へ、議論することの大切さ
 幟旗の掲げられた農村の祭りは、多くの日本人にとつて「心の原風景」として映るのではないでせうか。しかし、これからの日本を考へるとき、「心の原風景」が更に失はれてゆく危機をひしひしと感じます。
 敗戦によつて日本の国土は破壊されました。主要都市は空襲で焼け野原となり、戦時下に大規模な伐採が進められた山林も荒れ果てました。しかし、国破れしと言へど豊かな山河を後世に残さなければならないと、人々は進んで国土の再生のため汗を流しました。
 しかし講和条約締結後、日本は真の独立よりも経済成長を優先したことで、国土の様相は一変していきました。大規模な開発が各地で進められた結果、山も海も川も次第にその姿を変へ、国土の保全も担つてきた第一次産業は衰退してゆきました。
 今も続くかうした状況は、神代から続く歴史も、国民としての一体感も置き去りにし、国是として経済成長が最優先されてきた戦後体制が強固に継続してゐることの証明かもしれません。しかし、この状況を憂へても、個人の力では限界があります。
 今、為すべきことは、かうした現状にたち至った原因や背景について、広く深く知識を深め、学び考え、そして進んで様々な立場の人たちとも議論することであると思ひます。真剣な議論こそ力の源泉になると信じるからです。敗戦といふ未曽有の事態にあつて神道指令の発出により存続の危機に直面した全国の神社が、いち早く神社本庁を設立して対処できたのも、明治維新の理想を胸に秘めて、国家管理とは別の次元で神社神道のあり方を模索し、議論を続けてきた多くの神道人の存在によるものでした。私たちはもう一度、理想を取り戻さなければなりません。

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