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内弘志「西郷さんは征韓論など唱えていない」(『維新と興亜』第4号、令和2年12月)

日本、朝鮮、清国の同盟を構想していた西郷さん


 「西郷さんは征韓論を唱えた」という説が、未だに根強く残っている。しかし、西郷さんが唱えたのは「朝鮮使節派遣論」(いわゆる「遣韓論」)であり、「征韓論」などでは断じてない。
 明治新政府は、朝鮮国王に日鮮修好を求めたが、朝鮮政府は鎖国政策をとり続け、交渉を拒絶していた。わが国としては、この状況を打開する必要があり、確かに板垣退助らは強硬出兵論を唱えていた。だが、西郷さんが目指したのは、自ら使節として朝鮮に渡り、交渉によって局面を打開することであった。
 明治六(一八七三)年当時、岩倉具視を全権大使として、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允ら遺外使節団が欧米各国を視察中であり、西郷さんや大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが留守政府を預かっていた。数度にわたる閣議の結果、同年八月十七日に西郷さんを朝鮮に派遣することが決定された。
 ところが、帰国した岩倉や大久保はこれに反対、十月二十四日、西郷さんの派遣は無期延期された。西郷さんは辞職、翌二十五日には、板垣、副島、後藤、江藤らの参議も辞職した。この政変は、「征韓論者」と「内治優先論者」の対立と言われてきた。
 しかし、そもそも「征韓論」という言葉が用いられたこと自体が奇妙だ。明治六年当時、朝鮮半島に存在したのは李氏朝鮮であり、大韓帝国と改められたのは、その二十四年後の明治三十(一八九七)年のことである。
 「西郷=征韓論者」説を否定する第二の根拠は、西郷さんが明治六年十月十五日に三条太政大臣に宛てた上申書「朝鮮国御交際決定始末書」である。ここには、「いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく、彼我とも疑惑致し候ゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服せず候につき、是非曲直判然と相定め候、肝要の事と見居建言いたし候ところ、御伺いのうえ使節私へ仰せ付けられ候」と書かれている。これを読めば、西郷さんの「朝鮮使節派遣論」は明白ではないか。
 「西郷=征韓論者」説を否定する第三の根拠は、西郷従道の妻・清子の証言だ。彼女は次のように語っている。
 「南州様が征韓論者であるというのは間違いです。島津斉彬公という薩摩の偉い殿様に心服してお仕えしたので、その思想を受け継いでおられ、明治の初めの頃の外国、特にロシアの脅威や日本の将来を色々考えて、我が国と朝鮮とは仲良くしなければならないと思われていたそうです。それだから、いきなり朝鮮を征伐するというのではなくて、ご自分が遣韓使節になって先方に赴いて礼を尽くして良く話をすれば解ってくれるだろう、というのが本心であったのですが、どうしたことか征韓の大将のようにされてしまったのです。弱い者を無礼だといっていじめることは南州様の大嫌いなことですから、『西郷隆盛は征韓論者であった』というのは正論でありません。
 お祖父様(従道)が言われるには『南州様の本当のお考えは日本、朝鮮、清国の同盟でもって、更にそのもう一つ先を考えておられアジアの国々がしっかり手を結ぶことが出来れば、あれだけ植民地をふやしたイギリスをはじめとするヨーロッパの国もアジアをみくびることは出来ないだろう』そうすればロシアと世界の覇を争うイギリス等は必ずアジアに味方するだろう。こうしてロシアに備えよう。ということだったそうですよ」
 第四の根拠は、西郷さんと親交の深かった黒田清綱(画家・黒田清琿の養父)の証言だ。彼が西郷さんの労をねぎらうために西郷宅を訪問した時、西郷さんは次のように語ったという。
 「黒田どん、世間じゃおいどんが朝鮮に死に行くちゅうて、あれこれ言っておるようだが、おいどんは、むざむざ死に行くのじゃごあはん。一兵も動かさず、立派に『隣公』をやり遂げて来申す。策略はやりもうはん。天道に基づき、赤心を披瀝して話し合い申す……朝鮮との談判は心配しておりもうはん。すぐ片づきます。それで帰りにはロシアの首都に回って同盟を結んで来申す‥」
 また、黒田は「人事を尽くして、天命を待つ、との信仰をもっていた人である。相手の腹中に信を置いて誠を尽くし、堂々の論を述べ合う情況を作る人だった。あの人の腹申には驚くべき先見が有ったのだ。必ず、談判を仕遂げて帰る勝算があったといえる」と述べている。

「『西郷=征韓論者』説を糺す会」を旗揚げする


 「西郷=征韓論者」説を否定する根拠は、他にもある。明治八年に大久保らが主導した江華島事件を、西郷さんが厳しく批判していたことである。江華島事件とは、日本海軍が朝鮮に無断で測量していたため朝鮮軍から砲撃を浴びせられ、これに直ちに応戦して朝鮮軍を制圧した事件である。西郷さんは、篠原国幹への書簡の中で、次のように述べている。
 「朝鮮は数百年来交際してきた国であるが、維新後は摩擦を生じて数年来談判を重ねてきた。ところが今回の事件は、測量の事をあらかじめ相手に許容させてありながら発砲を受けたのならともかく、その事前処置をしなかった以上、砲撃を受けても応戦せず、まずその理由をただすべきである。しかるにただ相手を蔑視しておき、結果として戦争騒ぎを引き起こす。天理に於いて恥ずべきことだ。要路の人々が姦計をもって今までの交渉の努力を水泡にし、戦争を始めたのか。何分にも道理を尽くさず、強気を恐れ弱気を侮る心からおきたことと思う」
 勝海舟は明治二十三(一八九〇)年に『追賛一話』を刊行し、西郷さんは征韓論者ではないと説いたが、その論拠として挙げたのも、この篠原宛て書簡であった。さらに、明治二十七年には評論家の巌本善治が、海舟の次のような談話を『女学雑誌』に掲載している。
 「其れから、西郷先生の征韓論の事を尋ねた所が、海舟先生は同じ調子で、『ナニが征韓論ダ、いつ迄、馬鹿を見てるのだ。あの時、己は海軍に居つたよ。もし西郷が戦かふつもりなら、何とか話があらふジヤアないか。一言も打合はないよ。あとで、己が西郷に聞いてやつた。お前さんどふする積りだつたと言ったら、西郷メ、あなたに分つてましよふと言って、アハアハ笑つて居たよ。其に、ナンダイ、今時分まで、西郷の遺志を継ぐなどゝ馬鹿なことを言つてる奴があるかエ。朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどゝ云ふことが、何処にあるエ』と言ふことで、丁度日清戦争の頃、烈しいお話があったことがある」(松浦玲『明治の海舟とアジア』)
 以上の根拠から、「西郷=征韓論者」説の間違いは明白ではないか。ところが、学界においても、「西郷=征韓論者」説が幅を利かせてきた。それに堂々と異を唱えたのが、大阪市立大学名誉教授の毛利敏彦氏であった。彼は、西郷さんが明治六年七月二十九日に板垣に宛てた手紙をめぐり新たな解釈を示したのである。この書簡には、「暴殺は致すべき儀と相察せられ候」という表現があるため、従来は自ら使節として朝鮮に赴き、自ら謀殺されることによって、開戦に持ち込むという西郷さんの決意を示すものと解釈されてきた。これに対して、毛利氏は、西郷さんが自ら使節として赴くという決定に持ち込むために、征韓論に傾いていた板垣の同意を得ようとして、敢えて「使節謀殺」云々との議論を展開したのだと主張している。ところが、学界では毛利氏の主張は主流にはならなかったようだ。
 だが、鹿児島県では他の地域と事情が大きく異なることを強調しておきたい。すでに鹿児島では、「征韓論」という表現は避けられているのである。例えば、城山町に立つ西郷像の案内板には「遣韓使節をめぐる政争に敗れて」とある。また、維新ふるさと館の的場睦夫館長は、「市の案内板表記はこの見解で統一している」と述べている。
 「西郷=征韓論者」説に基づいた教科書の記述を書き換えていくことが重要だ。すでに、鹿児島県は二〇〇六年と二〇一一年に、高校の日本史教科書を出版する七社に対して、「遣韓論」の併記や「学説上、遣韓論に立つ見方も有力」との注釈を入れるよう要請している。その結果、一社が「西郷は征韓論を唱えた」の記述を削除した(『西日本新聞』二〇一八年二月九日朝刊)。
 筆者は、「西郷=征韓論者」説を一刻も早く糺さなければならないと考えている。そのために、「『西郷=征韓論者』説を糺す会」(仮称)を旗揚げすることにした。この場をお借りして、活動へのご支援、ご協力をお願いしたい。

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