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仲良くなる技


 かつて不世出の合気道の名人とうたわれた武道家が、合気道の究極とは何か、という(あまり賢明とはいえない)質問に、こう答えた。「それはね、自分を殺しに来た奴と友だちになることさ。」

 実際、この名人は、どこの誰がいつなんどき自分を襲ってきても、そいつを指先で軽く組み伏せ、悲鳴を上げて降参させることができる、と知っていたので、名人を「殺しに来る」ほど愚かな輩が現れたとしても、こおろぎが目の前に飛んできたくらいにしか感じなかっただろう。名人は誰からのどのような襲撃も全く恐れていなかったので、戦う必要がなかった。当然ながら、誰も名人を襲いには来なかった。仮に来たとしても、名人に対峙した瞬間にその闘争心は砂のように崩れ去り、気は萎え、名人の言葉通り「友だちになる」ほかなかったことだろう。

 誰とでも仲良くなるためには、合気道の奥義を窮めなくてはならない、というのがこの小文の趣旨であるわけでは、もちろんない。そしてまた、誰とでも仲良くなる必要などない、というのは最初に言っておくべき大切なことだ。誰と友人になるか、ならないか、誰と交誼を結ぶか、結ばないかの決定は、個々の人間の尊厳と高潔さに属する問題だ。それは言葉の最も根源的な意味で、人間が持って生まれた太古からの権利である。そして、何がどうあってもこんな奴と仲良くなりたくはない、といいたくなるような人物は、あなたにかぎらず、筆者の周りにも、誰の周りにもごく少数だが存在する。自分に嘘をついてまでそのような人物と仲良くなる義務は誰にもない。博愛主義とされる神様にさえ、そんな義務はない。

 とはいえ、ほとんど誰とでも仲良くなることは可能であり、そのための技があり、その技を身に着けるための習練は、合気道の奥義を窮めることにくらべれば、裏庭を歩いて三周するていどの努力しか要さない。

 いつでも、誰とでも仲良くなれるという自信が備わっていれば、誰かと仲良くしなくてはならない、という焦燥感に襲われることはなくなる。友だちを失うという不安や恐怖もなくなる。いくらでも失ってよい。友だちなどまたつくればよいのだ。失った友だちとも、そうしたいと思えば、またいつでも友だちになれる。あなたは孤独を好きなだけ楽しむこともできるし、ほんとうに大切にする値打ちのある少数の付き合いだけを選ぶこともできる。であれば、友だちが欲しいばっかりに、いったん疎遠になれば名前どころか顔さえ忘れてしまい、一生思い出すこともないような相手と仲良くなることに献身的な努力を払う必要も、むろんなくなる。

 人間関係におけるこうした苦労のなさと余裕ある態度は、同時に他人への寛容さをももたらす。良い交友はそのような余裕と寛容さを備えた人物のところに、自ずと集まるものだ。友人を持つことも失うことも恐れていない人は、数多くの最良の友人に恵まれるだろう。

 ひとと仲良くなる秘訣は、事細かに記述していけば切りがないが、煎じ詰めれば次の簡潔で平凡な教訓に尽きている。

 礼儀正しくあること。
 礼儀を失わない範囲で、率直であること。
 嘘がないこと。つまり、相手に対する隠し事がないこと。

 このうち、「礼儀正しさ」については多少の説明を要するだろう。家族や親しい友だちに礼儀正しくするなんておかしなことだ、と本気で信じているひとも多くいるだろう。礼儀という概念に、あまりにも多くの思い違いや思い込みがまつわりついているからだ。だが、家族や友人に礼儀正しくすることは、あなたの幸福のきわめて大切な一部を成している。このことの大切さは、どれほど強調してもし過ぎることはない。

 礼儀正しさとは、相手に対する偽りのない好意を示すこと、そして相手の価値を認め、それを余すところなく示すこと。あなたがそのひとを大切に思っており、軽んじていないということを目に見えるように示すことだ。そういう心の姿勢が、身体の姿勢、身振り、言葉遣いとなって表れる。作法、すなわち礼儀を構成する身振りや言葉遣いの型は、元はといえば、偽りのない好意と尊重が無理なく表される際の、身体の自然で合理的な運動だ。作法とは、長い年月をかけて体系化された、そうした運動の型の精粋(エッセンス)である。

 礼儀作法を学ぶことには意味がある。作法という型に自分の身体を適応させることが、相手への好意と尊重を自ずと心に生じさせるからだ。微笑むことで幸せになる、というのと同じように、あなたは身体の運動によって心の持ちようをコントロールすることができる。

 一方で、礼儀作法の不自然さは、あなた自身にも相手にもいくらかの不快感をもたらす。不自然な作法の何が不自然なのか、不快なのか。礼儀の基調であるはずの好意と尊重に何か不自然なものがある。自分に、あるいは目の前の相手に対する偽りがあるのだ。心と身体が同調していない。そこに不自然さと不快感が生じる。間違ってはいけない、礼儀は、正しくなくてはならないのだ。

 財界の大立者に向ける礼儀と、ラーメン屋の親父さんに向ける礼儀は、どちらも礼儀だが、作法は異なる。あなたの娘さんに対する礼儀の作法をあなたの上司に向けることは、礼儀が正しくない。好意と尊重の質が異なれば、それに伴う自然な身体の動きや言葉遣い、つまり「作法」も異なるからだ。
とはいえ、あなたの好意と尊重に偽りがなければ、あなたの作法もそれほど間違えることはない。正しい礼儀の根幹には、常にほんものの好意と尊重がある。

 お世辞は必ずしも相手を不快にするとは限らないが、ほんものの好意に基づかないお世辞は、おべっかであり、愚かでない相手はそれを多かれ少なかれ察知する。おべっかはむろん、正しくない礼儀作法であり、相手を不快にさせるだけでなく、あなた自身をおとしめるという最大の無礼を犯すことになる。言い忘れていた。あなたは、まず第一にあなた自身に対して礼儀正しくあるべきなのだ。あなたは自分に対し、偽りのない好意を抱き、あなた自身を大切にしていますか?

 さいごに、ひとつの難題が持ち上がる。偽りのない好意を持つこと。誰にでもそうすることがいったい、可能なことだろうか。

 それはおそらく、神ならぬわれわれには不可能に近いことだ。不可能なことを成し遂げようと気に病むのは愚か者の業である。あなたが愚かでないなら、誰にでも偽りのない好意を持つ義務などはなく、したがって、誰にでも礼儀正しくする義務もなく、誰とでも仲良くする義務など、なおさらない。無理は禁物だ。

 しかし、それでも、そうした愚か者になろうという企てに、あなたが身を投じてはいけない理由は、どこにもない。

 平和とは何か。どこを見回しても友人しか見当たらない状態である。したがって、迂遠なようでも、誰とでも仲良くなるというこのひとつの技術を学び、針仕事や大工仕事のように日々それを実践し、経験を積んで上達し、よい友人をいつでも持つことができる、という境地に至る人が増えていったとしたら、世界はそのような人とその友人たちの数と、かれらが占める空間の分だけ、平和になるだろう。

 行動としてはほとんどの場合、難しいことではなく、不可能なことでもない。こんな奴とは絶対に仲良くなりたくない、というかたくなな態度と、その固執を正しいものとする無数の理由、恨みや憎しみの理由こそが、ことを克服し難く、不可能に見せているだけなのだということに、ある晴れた日に私やあなた自身が思い当たれば、だが。

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