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「バッハはこうだ」という揺るぎない感覚

 とある雑誌の編集作業が追い込みで、普段怠け者の小生が珍しくも労働させられて疲労困憊だったが、大詰めの難所を突破したところで今日はエアポケットのように何もすることがない時間が取れた。それで聴いているのがこれ。ランドフスカのバッハ《ゴルトベルク変奏曲》1933年録音。

 誰も知らなかった、あるいは存在は知っていても聴いたことは一度もなかったバッハの秘曲を蘇らせ、世界に紹介した最初の録音として名高いが、戦後のグレン・グールドによるセンセーショナルな録音と、その後の歴史主義・実証主義的バッハ演奏の隆盛に伴って今では完全に「過去の遺物」扱いとなっている。

 まあ私にはそういう経緯はどうでもよく、カザルスの《無伴奏チェロ組曲》やエネスコ、シゲティらの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》、あるいはエトヴィン・フィッシャーの《平均律》と共に常に座右にあり、「ああ、バッハを聴きたいなあ」と思った時に手が伸びる演奏となっている。あ、そうだ、意外に思われるかもしれないし文句も出るかもしれないがフルトヴェングラー指揮の《ブランデンブルク協奏曲》も。だって、バッハの偉大さを偉大だと率直に感じられる演奏なんですから、仕方ないでしょう。

 こうした人たちのバッハ演奏を聴いていると、バッハの音楽が生活の中に普通にある環境で生まれ育ったであろうこれらの偉大な芸術家たちが、自分の骨身に染み付き、血肉となっている「バッハはこうだ」という揺るぎない感覚以外の何にも「根拠」「権威」を求めていないことを感じる。そういうバッハ演奏にこそ、私は完全に安心して身を委ねることができるようだ。

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