とりとめない生け花に関する今の所感

最近生け花に関連して思っていることをただ残す!

これまで、生け花は現代に合わせて生き残っていくために、現代美術に寄っていく必要があるのだろうなとなんとなく思っていた。実際に、生け花の展覧会に訪れると、床間の生け花から離れた、インスタレーションのようなのが主流になっているし、草月の教科書の内容もアートとしての生け花が強く意識されているように感じる。
現代美術の中で生け花が頭角を表すためには、作品にはっきりとしたコンセプトを持たせる必要がある。と思う。のだが。そこが難しいところ。
そもそも、花という素材を愛でることや、飾ることを出発点にした生け花に、人間の頭がこねくり回して作ったコンセプトを表現させるというのは合わない気がする。生け花は素材、時間、場所の制限があり、コンセプトを自由に表現することに適さない芸術ではないだろうか。(そして私たちは、人間の思い通りにならない、思い通りになるだけではない植物をいけるという行為自体を楽しんでいたのではないだろうか?)みたいな話。
みんな置いていかれないよう必死で、これまでにない創作をと躍起になりすぎているのではないかと。わたしはお花を生ける行為自体を愛でていたのであって、花を使って、無理をさせて、社会に投げかけたい主張があるわけではなかったのだ…(なんと私自身の愚かなこと…)(何かあるなら自分の口で言う!)

生け花は無理をして現代美術に迎合しなくても良いのではないか。花を生ける行為自体を愛でる芸術のままでよいのではないか。むしろそこを突き詰めていくべきである気がする。川に出向き、道端で植物を摘み、家に持ち帰って水切りをし、生ける。花屋に行き、店員さんと言葉を交わし、誰かのために花瓶に花を挿す。身近な人に最近、花を生けることに集中している様は、瞑想状態と同じなのではないかと言われた。確かに、花を観察し、どこを切り断ち、どう剣山に差し込んでいくかを考える行為は、わたしを癒している。突き詰めるべきは、どのようにして作られたかということかもしれない。

それから、生け花の一種に、花ではない、身の回りの素材を生けるというものがある。面白いなと思っていた時期もあったが、今、改めて正直意味がわからないと思っている。
これは草月流の勅使河原蒼風が始めた生け方らしく、造形るのは花でなくても良いという考え方から、身の回りのものは何でも生け花の素材になるという思いが詰まっている。とても素敵なことだと思う。これは私の想像なのだけど、勅使河原蒼風がこれを提唱した戦後日本、物資に制限があった時代は全ての物に限りがあり、そこにあるマッチ棒が尊かったのだろう。不自由なく物が手に入る今の時代とは違う、今ここにある物への愛着があったのではないかと思う。そんななか、今ここにある愛しい物を生けるという考え方は新鮮だったに違いない。
それが今、これだけ物が溢れた日本で、アルミホイルを生けてどうなるというのだろう。生け花は時代に合わせて変化をしなければならないのだ。

時代に合わせて変化しなければならないのだ?何を言ってるんだ…

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