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飛行機の本#27 中島飛行機物語(前川正男)

GTRとSUBARUは、中島飛行機の誉エンジンに源流がある。
このところ、中島飛行機関連の本を続けて読んでいる。今回の本は、「中島飛行機物語」と題されているが、中島飛行機会社の航空技師であった前川正男さんの自伝である。

前川さんは、大正4年生まれで東京府立工芸学校、横浜高等工業学校(現横浜国立大学)を卒業後、中島飛行機製作所に入社し、途中徴兵され幹部候補生試験を経て兵技中尉になる。昭和17年、ミッドウェイ海戦で日本の飛行機や操縦者が多く失われたことから、突然召集解除になり中島飛行機に戻される。飛行機製作が最重要になったためである。終戦まで中島飛行機の荻窪工場の工場長を務め、戦時下での生産工程の最前線で指揮を取ることになった。この本では、前川さんのこのような経緯と戦時下での飛行機製造について書かれている。エンジニアそしてマネージャーとしての視点で書かれており、当時の状況を知る資料的な価値も多い。

前川さんが兵技中尉だったときの職務は陸軍の兵器の改良や研究、生産工程を監督することであった。そのときのエピソードで、「へえ」と思うことがちらりと書かれていた。光学関係の兵器としてドイツからX線ライカが届けられる。日本でも同様のカメラを製造することになり、日本工学(現ニコン)か東京光学(現トプコン)が妥当とされていた。その時、前川さんが自分が監督をしていた会社の一つである精機光学を押した。「あそこの今度の社長の御手洗さんは、池袋の外科病院の院長さんですが、無類のカメラ好きで、国産ライカを作りたいばっかりにあの会社を買ったんです。軍からは対潜水艦用の筒型望遠鏡を発注していますが、研究室ではライカを試作しているようです。」と述べ、精機光学に決定するのだ。この思惑はあたり、日本製のライカがようやく出来上がるが終戦になってしまう。精機光学は、キャノンと名前を変え、日本製ライカを売りだす。そして、キャノン製カメラは爆発的に売れ・・・現在に至る。ということである。

前川さんは、中野飛行機に戻ってから担当したのは「誉」エンジンの生産を円滑に行うことであった。「誉」エンジンは、「零戦」や「隼」などに使われた1000馬力級の「栄」エンジンの発展形で大きさを押さえたまま2000馬力を出した。第二次世界大戦初期は1000馬力級のエンジンの飛行機が世界の主流であったが、大戦中期からは2000馬力の飛行機に変わっていく。日本では、この「誉」エンジンが唯一、大量に生産され多くの日本の飛行機に積載された。他の国の2000馬力のエンジンに比べ、小さく軽量であった。ただ、工場での生産には苦労した。それは精密な制作機器が用意できないことと、優秀な工員が徴兵され当時の中学生や女学生が勤労動員されて制作していたことにある。

前川さんは工場長の時に、重要なビスが不足して生産に影響していることを知る。下請け工場からの納品が滞っていることを調査し、その原因が意識にあることと考える。ビスは小さな部品でしかない。お国のためにという精神論が飛び交い中学生や老人が毎日同じ仕事をくりかえしているため生産効率がさがっていると感じたのだ。そこで、現場に行って話をする。「油濾過器のような小さな補機が足りないため発動機は完成できない。〜ビス一本の不足で飛行機が完成できないのです。」と、飛行機全体とビスの関係を話す。その後はビスの在庫不足がなくなったということだ。ドラッカーの「現代の経営」にも同じようなエピソードがあった。ライン製造の場で同じ仕事を繰り返していると生産効率が下がるのだ。仕事は全体が見えていないと達成感や意欲に結びつかないということ。

「誉」エンジンを積んだ飛行機で有名なのは陸軍の4式戦闘機「疾風」や海軍の艦上偵察機「彩雲」である。「疾風」は戦後にアメリカへ持って行かれ試験される。アメリカのオクタン価の高い燃料を積むと世界最高レベルの性能を出したと記録されている。しかし、前川さんの本の中には、陸軍向けの「誉」エンジンと海軍向けの「誉」エンジンは、それぞれの仕様が別々に進化していくために制作過程が別になり、制作工場まで別に用意しなければならなくなったということが書かれている。まことに戦時中であるのに軍隊という大官僚主義がまかり通った結果である。日本陸軍と日本海軍は、敵と戦うと同時にそれぞれが海軍と陸軍とも戦っていたのだ。

日本陸軍4式戦闘機「疾風」(中島飛行機キ84)
第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍戦闘機。
極めて小型、軽量に設計されている2000馬力級の戦闘機。
660 km/h(高度6,000 m)とされているが、アメリカ軍が調査した時にはプラグと燃料をアメリカ軍のものを使い697km/hまで出たという。これは戦場に実際に出た戦闘機の速度としては世界最高レベルである。

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日本海軍偵察機「彩雲」(中島飛行機C6N)
航空母艦から発艦する艦上偵察機として開発され、昭和18年時点では日本最高速の軍用機として戦場で活躍した。
最高速度 609km/h(高度6,100m)
追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツク敵機無シ」という電文がエピソードとして残されている。

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さてその「誉」エンジンの系譜がSUBARUの水平対向エンジン。特にEJ20型エンジンは、30年に渡って世界最高レベルを維持し続けた。「誉」エンジンの設計者である中川良一は、日本初の量産電気自動車「たま」(1947)制作を経てプリンス・スカイラインの制作を担当する。そして、その技術が日産スカイライン、スカイラインGTRの、GTRと進化していくことになる。SUBARUとGTRには、中島飛行機の血が流れているという根拠である。

『悲劇の発動機「誉」‐天才設計者中川良一の苦闘』という本が 前間孝則著(草思社)で出ている。


中島飛行機物語
前川正男
光人社NF文庫  2000年





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