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杉田庄一物語 その63(修正版) 第六部「護衛」 二〇四空、前日の動き

 午後二時ラバウル東飛行場、搭乗員に対して「指揮所前へ整列」の命令が出た。集合した搭乗員に対して宮野善次郎大尉は山本長官のブイン視察訪問の護衛を伝達し、編成表を見ておくよう指示する。

 全体の指揮官兼第一小隊長は森崎予備中尉であるが、直前二週間ほど病気療養していた。第二小隊長の日高上飛曹は二十四歳の下士官で六機の搭乗員では最年長。飛行経験も一番長く信頼されていた。

 第一小隊二番機は辻野上一飛曹、第二小隊二番機は岡崎二飛曹。ともに下士官であるが辻野上はラバウルの前線に来てまだ一週間であり、岡崎も下士官になったばかりで空戦の経験はなかった。 

 そして、第一小隊三番機の杉田、第二小隊三番機の柳谷はともにまだ兵(飛兵長)であるが、この半年間戦場で鍛えられ単独撃墜経験もあり、実力が認められての人選だった。

 指揮官を誰にするか、通常であれば宮野が自分で飛ぶはずである。危険な作戦でも率先垂範で常に先頭にたっていたのに、今回は森崎に指揮官を命じている。前述のように森崎は赤痢で休んでいて「い号作戦」に参加していない。宮野は森崎に活躍の場を与えたのではないかと考えられている。

 また、他の隊員については、野田、日高、尾関の三名のベテラン下士官が「い号作戦」で中隊長の任をつとめたので残る日高義巳上飛曹(この時期、日高姓が三人いた)を二小隊長にもってきた。あとは、実戦経験は少ないが頭角をあらわしてきた甲飛出身下士官の辻上一飛曹、岡崎二飛曹。そして、丙飛出身で階級は飛兵長であるが半年以上の場数を踏んできた柳谷、杉田が選ばれた。

 当日のことを柳谷は昭和四十三年十月号の『丸』に掲載しているが、「伝承零戦空戦記2」(秋本実編、光人社)の中の「私は山本長官機の直掩だった」という章の中に次のように転載されている。

「午後二時頃、突然、『宿舎前に整列』の命がかかった。 すると飛行隊長宮野大尉が『明十八日、連合艦隊司令長官ほか幕僚一行が前線視察のためと兵隊達の士気を鼓舞するため、一式陸攻二機で出発される。われわれが直掩を命ぜられた』
『指揮所黒板に直掩機六機の編成を書いておいたから、搭乗者は今日はゆっくり休め』そういわれると宮野大尉は指揮所内に入って行かれた。
(中略)
当時、ここ二〇四空では連日かなりの激戦で、相当の損傷と未帰還機を出し、機数も少なくなっていたが、それでも二十五機から三十機ぐらいは、常時飛べるように整備されていた。またブイン、バラレ基地方面は、もっぱらわが制空権内にあり、敵の小型機などは作戦的に姿を見せたこともなかったし、われわれも安心していた。(宮野隊長は緊急な作戦命令もないことだし、 二十機ぐらい編成してもいいんだがと言っておられたと後で聞いた)」

伝承零戦空戦記2」(秋本実編、光人社)


 柳谷のこの証言によれば二十五〜三十機の零戦が飛べる状態であり、宮野隊長も二十機を提案していたことがわかる。また、制空権内という安心感を隊員たちももっていたこともわかる。続けて次のように記述がある。

「明十八日の長官機直掩といっても、われわれの気持としては特別の緊張もなかったが、ただ、いくらか名誉的な気分があったかもしれない。 まして帝国海軍のシンボルである連合艦隊司令長官が行動するのであるから、危険などということは考えられなかった。」

伝承零戦空戦記2」(秋本実編、光人社)

 ブインへ飛ぶことにあまり緊張感をもっていなかったことが伝わる。詳細な行動日程は、十七日午後に行われた「い号作戦」研究会のときに開封日時指定封書で各司令に渡されたというが、それとは別に前述のような「粗相のないように」という指示が出ていたらしい。その指示がたとえ暗号であったとしても(実際に暗号解読されていたのだが)、通常とは違う動きが敵に読まれてしまうことに幕僚たちは不安はなかったのだろうか。このリスク管理の弱さが最悪な結果に結びつくことになる。

 森崎武予備中尉は大正七年生まれ、神戸高等工業学校(旧制)で在学招集され、飛行科予備学生に志願した。海軍飛行科予備学生制度は、士官不足を補うために昭和九年から始まり森崎は七期生で三十三名の同期がいる。予備学生は兵学校生徒に準ずる扱いを受けたが、やはり「予備」の文字がついてまわった。森崎は昭和十六年に霞ヶ浦海軍飛行隊に入隊し、六空に配属。空母「蒼龍」に乗り組みミッドウェイ海戦に参加、重傷を負って顔や手にケロイドが残っていた。負傷の後遺症で視力が落ちていて敵を発見する能力が弱く、戦闘機操縦員としては致命的な弱点をもっていたが、昭和十七年十月に宮野とともにラバウルの二〇四空に赴任した。二〇四空では宮野大尉のほかに士官は森崎だけで、事実上ナンバー二のポストについた。宮野は森崎を「森崎中尉」と呼び、「予備中尉」と呼ぶことはなかった。二人の仲は良く、お互い助け合って二〇四空をまとめていた。単独撃墜記録はないが、指揮官として何度も空戦に参加している。

 第一小隊二番機は辻之上豊光一飛曹。甲種予科飛行練習生の出身で昭和十五年に霞ヶ浦海軍航空隊に入隊した第五期生である。まだ太平洋戦争前であったため、訓練飛行時間を十分にかけて育成された年代である。ただこれまでの搭乗機は九六戦であり、零戦への転換はこの四月に入ってからで、十分にその特性を把握するまでの飛行時間を経験していなかった。戦闘行動調書によれば、零戦初出撃は一週間ほど前の四月十二日で、宮野飛行隊長の二番機としてのデビューだった。すでに下士官になっている辻之上をあえて二番機にして鍛えようという宮野の配慮だったと思われる。辻野上はその日から、十三日、十四日と出撃が続き空中戦も経験した。初出撃からの五日間緊張を緩めることなく十七日には森崎隊長の二番機を命ぜられた。

 第一小隊三番機は杉田である。飛長で護衛機の搭乗員として選ばれたのは杉田と柳谷だけだ。二人とも空戦経験は十分あり、技量も高く宮野の信頼は厚かった。柳谷によれば、当時の二〇四空では搭乗員たちがマラリヤなどで順繰りに寝込んでいて、元気な二人が選ばれたのだろうと語っている。

 第二小隊一番機(第二小隊長)は日高義巳上飛曹。屋久島の生まれで、昭和十一年に十七歳で海軍に入隊した。重巡洋艦「足利」の乗組員としてヨーロッパへ遠征した経験もある。飛行機搭乗員を目指し、隊内選抜を経て操練(操縦練習生)四十八期生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊した。昭和十六年十月に台南航空隊に搭乗員として着任し、日支事変で活躍した坂井、西沢、太田などのベテラン操縦員の元で鍛えられた。昭和十七年二月にはB17を協同撃墜している。六空に入ってからは、島川と仲が良くなり、ラバウルへ向けて出立する前日には、二人で千葉まで出てスッカラカンになるまで飲み明かしている。島川正明によれば、

「顔はニキビにおおわれていたが、大変なおしゃれで、外出時、自分達が考えられないような高級石鹸で洗顔した後、アモンパパイアのクリームをつけて現れた」

「島川正明空戦記録」(島川正明、光人社)

という。その後、ラバウルに進出し戦闘機三機の協同撃墜を記録している。六機の操縦員の中で一番飛行時間が多いが、零戦での実戦経験を十分に積んでいるというわけではなかった。このとき二十四歳。

 第二小隊二番機は岡崎靖二飛曹で、甲飛予科練六期の二十歳。昭和十七年七月に飛練(飛行練習生)を出て、十一月にラバウルに着任した。船団上空哨戒に出撃はしているが大きな空戦は経験していない。甲種なので任官は早く、最近下士官になったばかりであった。

 第二小隊三番機は柳谷謙治飛長。昭和十五年に徴兵されてから、操縦員を志願し丙種予科練(丙飛三期)を出た。そのため年齢は二十四歳になっていた。最年少の杉田とはかなり年齢が違うが、同期として六空そして二〇四空で共に戦った。柳谷はその後負傷して片手を失うが、長い療養を経て搭乗員に復帰する。戦後まで生き延び、貴重な証言を残している。

 四月十七日午後二時、ラバウル西飛行場七〇五空でも一式陸攻二機の編成が発表され、搭乗に際しては服装を整えておくようにと伝達があった。同日夕方、森崎予備中尉以下六名が司令室にひそかに呼び出される。四月に森田千里大佐から変わったばかりの新司令杉本丑衛大佐が明日の出発命令を伝える。

<引用・参考>


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