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杉田庄一ノート1:大正13年7月1日〜浦川原村史から

 浦川原村史は昭和59年8月10日に浦川原村史編纂室によって編集され、竹内友幸浦川原村長によって発行されている。第12章村の人物誌に杉田庄一のことが記載されている。

 大正13(1924)年7月1日、浦川原村小蒲生田で、父秋作、母イヨの二男として生まれる。
 中保倉小学校時代は、頭が良く運動も万能で中保倉の兎(うさぎ)といわれた。
 県立安塚農学校(現県立安塚高等学校)に進学、昭和十五年(1940)年六月一日、舞鶴海兵団に入隊海軍四等航空兵を命じられる。同年十月十五日、第三期丙種飛行予科練習生として土浦航空隊に入隊、厳しい訓練を受けることになる。「海軍は厳しいというがのおー、わしの家の方がもっと厳しいぞ」とよくこのとき、仲間に話していたという。その後、筑波航空隊、大分航空隊を経て昭和十七(1942)年三月三十一日、三期を卒業、第六航空隊(二〇四空)に配属された。
 昭和十七年秋、最年少者の一人としてソロモン戦線に出撃、ブイン基地において、単機B17に突進、肉薄し過ぎ体当たりして撃墜、無事帰還するという離れ業をやってのける。
 昭和十八(1943)年四月十八日、運命の日がやってくる。ブイン視察の連合艦隊司令長官山本五十六ほか幕僚を乗せた海軍一式陸上攻撃機の護衛に六機の零戦で当たる。折から待ち伏せて攻撃してきた敵機P38十六機と空戦、庄一は二機を撃墜するが長官機は撃墜されてしまう。その後任務を全うし得ずと自責の念にかられる六人の飛行兵は、死所を求めるかのように敵機を求め、激しく戦い続けた。そして、わずか二か月足らずの間に四人は戦死、一人が重傷、残るは杉田二飛曹だけになってしまった(アメリカ側はいずれも進級、戦後まで生き延びた者が多いのに、日本側で生き延びたのは重傷を負った兵一人だたっというのは、あまりにも対照的な結果である)。庄一の出撃数はだんだん多くなり、ひどいときには月二七回にも及んだという。昭和十八年のころには、単機で六〇機も撃墜、数少ない撃墜王の一人となった。
 昭和十八年八月二十六日、執念の鬼となって空戦中、エンジンに被弾大火災大火傷、一命は取りとめたものの十月十三日舞鶴海軍病院に転送、このとき故郷にも帰る。退院後、内地勤務となり、昭和十八年十二月七日徳島航空隊に着任、鹿屋第二五二空に移った。搭乗機は零戦から最新鋭紫電改となり、敵機撃墜の記録を更新する。昭和二十(1945)年四月十五日、来襲する敵機迎撃に鹿屋飛行場を離陸中、グラマンに後方から撃たれ火を吐いて墜落、ついに帰らぬ人となってしまった。当年満二〇歳、どんな戦闘にでも真っ先に突っ込み死を恐れぬ杉田機に敵も恐れをなし、これを避けたという。豪放野性味あふれ、闘魂の権化と語り継がれる。


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