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杉田庄一ノート84 昭和15年10月〜16年4月「第三期丙種予科練習生」

 昭和15年、アメリカとの戦争が間近にせまってくる。アメリカと戦争になれば、飛行機操縦員が大幅に不足することが予測された。そこで募集人数を多くするために予科練の制度が改変される。原則としてこれまで予科練は中学校(旧制)卒業か在学中で受験資格が得られたが、この年から甲種(中学校卒業資格者で下士官養成コース)、乙種(これまでの予科練生コース)、丙種(水兵からの操縦練習生コース)の3つに分かれることになった。丙種はもともとが水兵からの部内選抜者で募集となっていたので、高等小学校卒でも受験可能だった。甲乙丙の飛行教程に差はなかったが、丙飛には兵歴を持っているものがいて、下士官から三等兵までの混成になり、年齢差も5歳くらいあった。甲乙丙の区分はその後、予科練生たちに軋轢を生んでいくことになる。丙飛では、すでに操縦練習生だった期は第二期、これから入学する者は第三期とした。一期はない。

 第三期丙種予科練生(丙飛三期)は200人くらいいて、大部分が三等兵であるが、前述のように三等兵曹が2名、数名の一等兵、二等兵がいて現場からの選抜者であった。三等兵は、海兵団から直接予科練に入っている。おそらく養成をいそぐため、これまでのように水兵としていったん各専科に行くことをせず、海兵団のうちに選抜試験を行い、直に航空兵として養成したと思われる。操縦練習生になってからは、途中で落伍した時の所属がないと困るので、操縦者として実戦配備されるまで、所属専科は残されていたのだろう。

 杉田は、15年6月1日に舞鶴海兵団には「四等航空兵」で入団し、10月15日に卒業した時には「三等航空兵」を命ぜられて、同日予科練に入っている。翌16年4月28日に予科練を卒業して操縦練習生になったときに「昭和16年勅令第625号ニ依ッテ海軍三等整備兵トナル」と履歴に書かれている。もし操縦員不適格となって落とされた時に迎え入れる原隊として、整備科を原隊として所属していたのではないかと推測する。航空兵がだめだったら整備兵にされるということだ。海軍は試験などで一回でも不合格になる追い出されて原隊に戻されることになっていた。杉田は10月1日の定期昇格で「二等整備兵」になり、11月29日に大分航空隊の所属になるが、翌17年3月31日に卒業して第六航空隊に所属するまで「二等整備兵」で、同日「配属変更」の命令を受けようやく「二等航空兵」となっている。

 さて話をもどして、昭和15年10月15日、杉田は舞鶴海兵団を終えて海軍三等航空兵として霞ヶ浦の鹿島航空隊(土浦航空隊派遣)に着隊する。すぐに分隊編成があり、操縦、電信、偵察と分かれ、操縦は丙種予科練生予定者となる。後述するが、杉田と予科練時代から操縦練習生時代をともに過ごした杉野計雄(かずお)氏が『撃墜王の素顔』(杉野計雄、光人社)という本を書いており、この時代の杉田を知ることができる。

 入隊予定者が全員揃ったところで、学科試験がなされ、数名の不合格者は出て、原隊に帰される。その後、身体検査と適性検査が数日かけて行われ、不適格者は即原隊に戻される。杉野氏は、「聞きしに劣らぬ首切りであるのに戦々恐々とする日がつづいた。せっかく親しくなった友が何人か不合格になり、退隊するのを見て、無情さに明日は我が身ではなかろうかと、不安になることもあった。」と書いている。・・・『撃墜王の素顔』

 連日の検査や試験をパスした者は、土浦航空隊に入隊となる。杉田の履歴書も、15年10月15日に着隊したのは前述のように名目は鹿島航空隊で「丙種飛行予科練修生(操縦専修)予定者」となっており、「土浦航空隊に派遣」と補足されている。16年2月28日に晴れて「土浦航空隊入隊」となっており、杉野氏の記述と整合する。そして3月に「土浦航空隊」を卒業し「筑波航空隊」に操縦練習生として入隊することになる。予科練ではまだ操縦訓練はなく、学科と身体訓練を詰め込んだ。この期間でも落伍していく者が出た。

 笠井智一氏も『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で予科練時代のことを書いている。笠井氏は、昭和17年に甲種予科練に入っている。甲種ということで、予科連での学習期間は丙種に比べて長く1年間であった。それでも4ヶ月繰り上げされたのだが。予科練での生活について、笠井氏は次のように書いている。

 「入隊式が終わり、デッキにもどると突然、班長たちが『貴様ら、いつまでもぼやぼやしとるんじゃ!予科連はそんなに甘いもんじゃない!』と、例のこん棒でわれわれをかたっぱしから叩いてきた。いきなり何発も叩かれることはなかったが、練習生は突然のことでみなびっくりした。叩く前には、『脚ひらけ、両手上げい!」と予告があった。かつてイギリス海軍が下級船員を扱うときにこん棒で叩いており、イギリスから海軍の制度を学んだ日本にもその習慣が一緒に入ってきたと聞いた。手を降ろしていると骨折するほどの打撃だった。こん棒がないときは朝の綱を水に浸して叩くが、これもとても痛かった。 翌年に予科練を卒業するまでの間、班長たちは『何べん言ったら貴様たちはわかるのか!牛や馬ではあるまいに!』などと言いながら、そのこん棒でことあるごとにわれわれの尻をパンパン殴ってきた。一人が何かに失敗したら全員が制裁を受けた。お尻が内出血で真っ黒になるくらいに何度も殴られ、それが原因で体をこわした練習生もいた。」・・・『最後の紫電改パイロット』

笠井氏は予科連での1日についても記している。少し長いが転載する。

「予科練の朝は、冬は六時、夏は五時半。『総員起こし五分前』の拡声器の放送で一日がはじまった。実際にはその放送で全員起こされるが、デッキのビームにずらりと吊り下げられた吊床(ハンモック)の中で各人が心の準備をしてつぎの総員起こしのラッパを待った。この五分間、寝たふりをしてぴくりとも動いてはならない。
 ラッパが鳴り終わった瞬間に練習生は一斉に吊床から飛び起きて、吊床をフックから外し、だいたい二十秒前後で太い丸太状にたたんで紐で結縛した。そして、中二階の『ネッチング』という収納場所に吊床をしまうため吊床当番に順次渡していき、白い番号のついた札を表側に向けて、端から素早く並べて格納していった。」

「ハンモックを片付けると、つぎは急いで着替える。練習生の服装は、朝礼のときはもっとも威儀を正す第一種軍装。そのあとは白い事業服に着替えて日中はそれで過ごした。夜の温習(兵舎内での自習時間)前にふたたび制服に着替えなおし、脱いだ事業服は『衣嚢』という巾着型の大きな袋の中に畳んで収納した。衣嚢の中まで点検されることがあるので、いい加減なたたみ方はできなかった。」

「起床後は洗面をして兵舎の横に整列し、順次、練兵場まで駆け足。分隊ごとに人員点呼のあとは朝礼と海軍体操、そのとき宮城遥拝や五か条斉唱も全員で実施した。起床三十分後には甲板掃除、七時十五分からは週番練習生による課業報告があり、食事ラッパが鳴ると朝食だ。
 食事はいつも班ごとに長テーブルに向かい合い、班付の教員が上座に座って一緒に食べた。予科練の食事は三食ともうまかった。私は田舎の農家の息子だから、よけいにおいしいと感じたのかもしれない。ただし量は少なかった。ご飯は一日一食あたり二百六十グラムなど、練習生一人当たりの食べる量はあらかじめ決められていて、つねにお腹がすいて苦労した。」

 海兵団や予科練の思い出が描かれている資料を読むと辛い課業として「カッター訓練」とならんで「甲板掃除」があげられていることが多い。海兵団の経験がある父もよく話をしていたのがこの二つである。四股を踏むような格好で右、左と雑巾(ソーフ)を力一杯推して進む。冷たい冬でも湯気がたってくるような力仕事だったという。

「八時にラッパ『君が代』とともに軍艦旗掲揚、その後は講堂で温習、八時五十分に課業整列があって副長の訓示や分隊長報告を聞いた。
 午前中は、三〜四時限の課業があり、十二時には昼食。食後の休憩は銃器の手入れなどをして過ごした。午後は二時限の課業があり、十四時四十五分からは別科目として武技、相撲、水泳などで体を動かし、十六時四十五分に夕食。食後は酒保(売店)に行ったり、風呂に入ったり、洗濯などができる自由時間がわずかにあった。」
 「十八時三十分に温習がはじまり、温習終了後は講堂のテーブルに練習生同士が向かい合って『五省』の時間だった
 「ひとーつっ、至誠に悖(もと)るなかりしか」
 「ひとーつっ、言行に恥ずるなかりしか」
 「ひとーつっ、気力に缺(かく)るなかりしか」
 「ひとーつっ、努力に憾(うら)みなかりしか」
 「ひとーつっ、無精に亘るなかりしか」
 五省が終わったら二十時五十分に吊床降ろしとなり、しばらくデッキの掃除をしてから二十一時には巡検、就寝となった。
 日中バッターをふるった班長が、練習生の毛布の乱れをそっとなおして回っていた。」

 武技や相撲などは、勝つまで交代させてくれないという厳しい「負け残り」という独特のルールがあった。飛行機操縦には運動神経が求められていた時代である。現代で言えばアスリートなみの身体能力が求められていた。課業(学習)も厳しかった。予科連という意味は、操縦練習生となる前の予科練習生であり、相応の学力をつけなければならない。高等小学校しか出ていない丙種予科練にとっては、予科連で学力を一気に上げて操縦練習生としての学習に耐えうるまでにしなければならなく、つらいものだったと想像する。海軍の飛行機操縦者は、航空学だけでなく無線通信の知識や航海術もマスターしなければならない。一人で武器を扱うために兵器についても熟知する必要があり、予科練を出た時点で大学入学前くらいの学力が求められた。試験に合格しなければ即原隊行きである。

 昭和15年の10月15日に丙種予科練習生となって半年くらいの速成教育で16年4月28日に卒業となった。









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