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杉田庄一ノート35:昭和17年12月B17へ体当たり

 ノートに前述したように10月はじめ頃から、ソロモン海域でのアメリカ軍大型機(B17やB24)による爆撃や偵察飛行の頻度がましてきており、ブインの第204航空隊でも大型機への迎撃訓練が行われるようになった。そんな中でおきたのが杉田庄一のB17体当たり撃墜事件である。

 このB17体当たりについてのエピソードは、多くの本で取り上げられているが、同じ隊にいた先輩の島川正明氏の「島川正明空戦記録」(島川正明、光文社)と当時の飛行隊長として直接報告をうけた小福田皓文氏の「指揮官戦闘機ーある零戦隊長のレポート」(小福田皓文、光文社)を引用する。小福田氏は「ある日の撃墜王杉田庄一」というタイトルで章を割いている。また、神立尚紀氏の「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」からも引用して補足する。宮野善治郎大尉は中隊長で杉田の直接の上司であった。杉田は宮野大尉の列機になったとき多くのことを学んだ。「空戦になったら俺から絶対に離れるな。俺が宙返りしたらその通りにやれ。お前は照準器を見なくていいから、俺が(機銃を)撃ったら編隊のまま撃て」という教えは、後に杉田が「撃墜王」になったとき列機になった笠井氏にそのまま伝えている。

 まずは、島川氏の記述である。
 「日付についてはほとんど記憶にないが、たしかこのころだったと思う。敵偵察機(B17またはB24)が毎日といってよいほど基地の上空に現れるようになった。しかも時刻は、いつも正午である。(われわれはこれを定期便と呼んだ)
 わが戦闘機にたいし、よほどの自信があったものとみえ、きわめて正確に上空に現れるのである。まるで私たち204空戦闘機隊を無視したかのように・・・・。彼らは過去にわが零戦と戦った経験があるのかも知れない。でなければ、このような定期便は出せないはずだ。
 私たちは基地上空哨戒の任務を兼ね、この偵察機にたいする攻撃方法を訓練していた。敵の集中砲火を避けるため、斜め上方、同前下方、そして背面攻撃などがそれである。つまり、敵の視角外からの攻撃方法なのだ。
 後上方攻撃など基本どおりの方法では、わが方の二十ミリ機銃にたいし、敵機十三ミリ(正確にいえば十二・七ミリ)機銃の弾道がすぐれているため、被害が多かったのである。そんなある日、訓練中の杉田上飛が飛来した敵機にたいし、斜め上方から攻撃をかけたが、きわめて接近の早い反航のため、退避が遅れ、垂直尾翼が敵機に接触し、敵機は空中分解して墜落していった。
 彼は己れの空中ミスを恥じ、おそるおそる報告していたが、おとがめを受けるどころか、逆におほめにあずかり、照れていたようである。以後、しばらくの間、敵の定期便は姿を現さなかった。杉田の大手柄である。
 彼はリンゴのような紅いほっペタをして大声で笑う好青年で、ラバウルに引き揚げた後、多数の敵機を撃墜したと聞いたが、攻撃精神の旺盛な好青年だった。」

 昭和18年5月のブインでの写真である。当時の杉田の様子がうかがえる。童顔の田舎のあんちゃんという雰囲気があり、最年少ということで隊の中でかわいがられていたのであろう。山本五十六司令長官の護衛機としての責任を果たせなかった日からそうたっていないので、顔がこわばっているような気もする。

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 つぎに小福田氏の「指揮官空戦記」から抜粋する。
 「ある日、若い杉田飛行兵の組を訓練するため、古参の日高飛行兵曹長の組が、B17代わりの目標隊となって、指定した訓練の場所に上がっていった。
 目標隊は、決められた空域にきて、適当な高度を飛びながら、訓練隊がやってくるのを待っていた。が、訓練隊はいっこうに姿をあらわさない。いっしょに離陸したはずだが、おかしいなあ、と不審の念に駆られる。
 一方、杉田飛行兵の訓練隊ニ機は、出発のときには、目標隊の後をすぐつづいて離陸し、 訓練開始の地点に上昇していった。ところが、旋回上昇中、ふっとはるか向こうのほうに大変なものを発見した。それは、ホンモノのB17である。
 杉田飛行兵は武者ぶるいした。そして、すぐ相棒の神田飛行兵機に、敵の方向を指さしながら、大きくバンクして、これを知らせた。ニ機の零戦は、エンジン全速、まるで獲物を見つけた猟犬のごとく、B17に向かっていった。
 二人はもう、その途端に、訓練のことなど忘れてしまって、ホンモノに向かってまっしぐらに突きすすんだ。新しい攻繫法の「実物実験」をする腕だめしの機会だと、それだけで頭がいっぱいであった。
 二人は新しく教わった前下方翼の付け根ということと、衝突するぐらい接近肉薄するという二つのことだけを頭に、敵の前下方にまわりこんでいった。神田飛行兵が最初に突っ込んで、攻擊をくわえる。すぐその後、杉田機が敵にぎりぎりのところまで肉薄し、ここぞとばかり機銃を撃ち込む。
 しかし零戦とB17が、戦闘状態で向かい合って接近する場合を計算してみると、だいたい一秒問に250メートルくらいの速さで接近する。しかも、射撃は、実際は100メートル か、150メートル以内でないと、二十ミリ機銃は命中しない。だから、引き金を引いてか ら、照準をやめて退避するまでに、二分の一秒ぐらいしかない計算になる。
 杉田機が射撃した瞬問、B17の大きな機体が、まるで屋根でも落ちてくるような感じで、頭からおおいかぶさってきた。杉田飛行兵は、思わず無我夢中で操縦桿を前に突っ込み、身をすくめた。
 その瞬間、ガーンという音と、大きな衝撃をうけた。それでも、べつに異状もなかったように、杉田機はB17から離れていった。弾は当たったのかどうか分からない。だが、相手の B17は、右主翼の半分近くを吹き飛ばされ、バランスを失って、機を支えきれないらしい。 ゆるやかな右降下旋回に入り、墜落していった。
 こうして、この零戦二機は、そのまま飛行場に帰ってきた。神田飛行兵は、着陸するや大喜びで
 『おい、B公を一つ落としたぞ・・・』
 杉田機は、と見ると、飛行場着陸コースをゆっくり飛びながら、なかなか降りようとしない。地上から見ると、なんだか尾部の垂直翼が吹っ飛んでしまているようだ。方向舵がなくなっているので、思うように旋回ができないらしい。
 (まあ、方向舵だから、なんとか操縦できるだろう・・・)
と思っているうちに、ギコチない格好で、なんとか無事着陸した。
 一方、なにも知らない日高兵曹長の目標機は、指定の空域で、旋回しながら待っていたが、いつまでたっても、訓練隊の二機は、影も姿もあらわさない。とうとう温厚な彼も、頭にきた。
 『野郎たち、訓練とはいいながら、目標隊も見つけきらずにはぐれるとは、なんたることか。未熟者はまったくしょうがないな・・・』と、カンカンである。
 神田、杉田の両飛行兵は、やがて、私のところへ報告にきた。にこにこ笑いのとまらぬような顔をしているのは神田飛行兵で、殊勲の杉田飛行兵のほうは、申し訳なさそうな、さえない顔つきである。
 彼は赫ら顔の、かわいい、まだ少年の面影の残ったパイロットであるが、このときばかりは、平素から『空中衝突は絶対いけない。パイロットの恥である』とやかましく言われている手前、今日はきっと、隊長から叱られるにちがいないと思ったらしい。しょんぼりと、肩を落としてやってきた。私は彼の報告を聞き終わると、『よし、よくやった。杉田飛行兵、衝突、接触は絶対にいけないというのは、味方同士の場合のことで、相手が敵となれば話はべつだ。落とし方がどうであろうと、敵をやっつければこっちの勝ちだ。とくに相手がB17となれば、殊勲の手柄だ」と、杉田飛行兵をほめ、夕方彼の天幕に、清酒一本とどけてやった。
 そして、この機会に、私はパイロット全員を集め、平素からの持論である戦闘機射撃の秘訣を、繰り返し強調した。
 『戦闘機の射撃は、一にも二にも、”肉薄攻撃”に尽きる。敵に向かって、つねに衝突するつもりで突入、肉薄することだ。そして、もう一秒か二秒で衝突という直前に機銃の引き金を引け。引くと同時に、力いっぱい退避しろ、これでいいんだ。なまじっか、普通の射撃訓練の要領で、敵影を照準器に入れ、適当な距離に入ったところで射撃開始などというお行儀のよい優等生型の射撃では、実戦では、敵を落とせない。実戦における射撃は一にも二にも接近肉薄、ぶつかる寸前に引き金を引け。今回の杉田飛行兵のように、本当は敵に衝突しなくてもよいが、衝突するぐらいの肉薄攻撃の闘志は、じつにりっぱだ。明日からみな衝突するつもりでやれ・・・」とハッパをかけた。
 それから零戦隊のパイロットたちも、B17に対し、だいぶ自信と闘志をもって立ち向かうようになった。ともあれ、杉田飛行兵のB17の衝突突撃は、味方の士気を上げるのに大変に役立った。
 私がこの戦闘機隊の隊長をしていたころの杉田飛行兵は、パイロットとしても、まだ半人前までもいかないひよこに近いレベルであった。しかし、それから足かけ4年の歳月は、彼をしてついに日本海軍における『撃墜王の一人』といわれるまでに成長させた。もちろん当時の戦局が、彼に実戦につぐ実戦の経験を重ねさせ、生の間をくぐり抜けさせたためでもある。」


 衝突の回避は、瞬時の判断であったことが、技術畑を歩いてきた小福田氏の具体的な表現でわかる。1/2秒の判断が生死をわけるのが空中戦であることが伝わる。現在、YouTubeなどで動画を見ることができるエアレースは350km/hくらいでパイロンをすり抜けている。見ていてすごい速さだと感嘆するが、戦闘機の空中戦は時速500km/h以上で撃ち合っている。対向してすれ違う場合はその倍の速さになるわけで、レーダーやコンピュータなどのない時代、判断の鋭敏さが生き残れる条件だったことがわかる。杉田はわずかに退避がおくれたが、ぶつかりながらもかわすことができた。そしてひるまずギリギリまで接近した。この経験が「撃墜王」と呼ばれる道を拓いたのは確かだろう。

 神立尚紀氏の「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」には次のように記述されている。
 「十二月一日のことである。宮野や大原たちが訓練を終えて降りてくると、入れ替わりに、神田佐治飛長、杉田庄一飛長らのグループが同じ訓練のために離陸した。『戦闘行動調書』には、神田、杉田、人見各飛長の三機が邀撃に上がったとあるが、大原の記憶によると、四機が二機、二機に分かれてある距離まで離れたところで反転、会敵することになっていた。神田と杉田が反転する時、杉田が遥かかなたに一機のB-17を発見した。本物の敵機である。訓練より実戦、というわけで二機は、このB-17に突進すると、訓練の想定通りに前下方より攻撃を加えた。相対速度があるので、見る見るうちに敵機が眼前にかぶさってくる。
 まず神田機が一撃、続いて入った杉田は、事前の注意に忠実に、敵機にぎりぎりまで接近すると、主翼付け根を狙って全銃火を開いた。発射弾数は二機合わせて二十ミリ機銃百六十発、七ミリ七機銃八百三十発と記録されているから、攻撃時間はそれぞれほんの数秒である。ここで一瞬、杉田の撤退動作が遅れた。機体を左下方にひねって敵機の腹の下にもぐろうとしたところで、杉田機の右主翼の翼端と垂直尾翼とが、敵機の右主翼とぶつかったのである。敵機は、右翼を切断されて墜落していった。杉田は、かろうじて機体の安定を取り戻すと、ブイン基地に滑り込んできた。
 『杉田が着陸したのを見ると、方向舵がほとんど潰れていました。杉田は、これが彼の性分なんですが、エンジンを切るなり、『やった、やった』と操縦席から飛び降りてきました」(大原飛長談)
 仮想敵役の二機は、ぐるぐる回っても神田機と杉田機が現れないので、あおの野郎、敵を見失うとは何事だと怒って帰ってきたらしいが、ちょうどその頃、基地では、二〇四空になって初めてのB-17撃墜に沸いていた。
 この撃墜は、銃撃による効果もあっただろうが、直接的には体当たり、というより空中衝突によるものである。普段から、空中衝突や接触は搭乗員の恥として強く戒められていた。降りてきた時には大はしゃぎだった杉田も、いざ小福田隊長に報告する段になって、ふとわれに返ったらしい。ニコニコと笑いの止まらぬような顔をしている神田飛長とは対照的に、杉田は神妙な面持ちであった。
 『叱られると思っていたのか、緊張して真っ赤な顔をしているので、堕とし方はどうでもよい、敵をやっつければ勝ちだと誉めてやった。』(小福田少佐回想)
 杉田の顔が、パッと輝いたという。杉田は新潟県の生まれ、大原たちと同じく十五志の兵隊であったが、大原より三年半も若い大正十三年七月生まれで、当時まだ十八歳の紅顔の少年であった。
 空中衝突とはいえ、ここでB-17を撃墜できたことは、以後の戦いにおける搭乗員の気持を楽にした。殊勲の杉田のもとへは、小福田少佐から一升瓶が届けられ、その晩は皆で大いに盛り上がった。」

 苦しめられていたB-17の204空初撃墜だ。杉田にとっても初撃墜?だった。204空(第6空)は、天候や事故による墜落や行方不明が相次いだこと、また、ミッドウェイ海戦の生き残りのベテランと短い訓練のまま前線に出された新人とで編成されたこと、なによりも戦争の節目が変わったことなどから、当初は重苦しい雰囲気があった。島川氏の記録には、酒に酔って日本刀を振り回したベテラン下士官がいたことも書かれている。そんな重苦しい雰囲気を吹き飛ばすような杉田の快挙だったのだ。

 「ひよこ」の杉田にとって、小福田隊長は雲の上の人だったに違いない。その雲の上の人に褒められたことが、その後の空戦における自信につながったのは間違いない。

 以後、ラバウルでは制空権をめぐって熾烈な消耗戦に入るが、小福田隊長、宮野分隊長のもとで204空は鍛えられ実力をつけるとともに雰囲気もよくなっていく。



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