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杉田庄一ノート83 昭和15年6月「海兵団時代」

  昭和15年6月1日、杉田は舞鶴海兵団に志願兵として入団する。履歴書を見ると「海軍四等航空兵ヲ命ズ」と書かれていて部内選抜でなく、当初から飛行兵を命ぜられている。「舞志飛第一四九一号」(操練)とも書かれている。ところが海兵団入団後に丙種予科練に入ると、履歴書に「整備兵ヲ命ズ」と変わっている。

 当時の海軍志願兵として志望できる兵種は、水兵、整備兵、機関兵、工作兵、看護兵、主計兵の6種しかなく、航空兵になるには予科練を受験しなければならなかった。昭和16年からは航空兵を増員するために予科練制度を改変して甲種予科練、乙種予科練、丙種予科練とわけ、受験しやすくしている。その1年前ではあるが、次年度以降に丙種予科練になることを前提としての志願兵だったのかもしれない。丙種ができる前は、水兵などの違う兵科に所属していて選抜試験を経て操縦練習生(操練)となるか予科練生になるかしかなかったのだ。ちょうど過渡的な時期だったので錯綜していたのかもしれない。

 海兵団というのは、大きな軍港におかれた海軍基地でおもに新兵教育をおこなっていた。横須賀、呉、佐世保におかれていたが、開戦に備え昭和14年に舞鶴にもおかれた。舞鶴海兵団はおもに北陸方面出身者を対象としていて、杉田も舞鶴海兵団に入団した。

 海軍志願兵の試験は10月に行われ、合格者には合格証書が渡される。海軍志願兵の採用は、合格者であっても不採用になることがあり、当日入団するまで安心していられなかった。その後、翌年3月初旬になってはじめて採用通知が来る。そして、出頭は3ヶ月後の指定日と通知される。 その間、所属なしというのは許されない。青年学校令というのがあり、高等小学校を卒業すると男女とも実業学校もしくは青年学校に属さねばならなかった。杉田は、安塚農学校に入学し、6月まで通うことになる。不採用になればあきらめてそのまま農学校に通うことになっていたはずだ。杉田は、採用証書を眺めながら入団日までの3ヶ月を待ち遠しく過ごしたはずだ。自宅から10kmほど離れた安塚農学校(現新潟県立高田高等学校安塚分校)まで歩いて通っている。

 海軍への志願は、それだけでも倍率が高く私の父もその翌年、同じ地域から志願しているが4〜50倍くらいだったと聞いている(私の父も舞鶴海兵団を経て整備兵として従軍している)。海軍は原則として試験は勝ち残りで競わされる(相撲や剣道などは逆に負け残りでしごいた)。学科試験は、まず数学から実施されるが、次の国語の試験の間に採点され、未達のものは落とされそのまま帰らされる。学科の次は、身体検査、そして運動能力試験。懸垂や肺活量の検査などを経て、口頭試問が最後にある。同じ地区から100名以上受けて、最後まで行くと数名になっている。合格証書が渡されるが、身辺調査などをされて採用証書が渡されるのはさらに絞られる。やはり徴兵されて陸軍へ行くよりも志願兵として10代で海軍へ行くのが当時の若者のあこがれで倍率は高かったのだ。ほとんどの合格者は、学校で一番の成績をとっていた。

 『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)によると笠井氏は甲種予科練第十期生で、昭和16年3月に神戸元町の青年学校で試験を受けている。甲種なので中学からの受験になるが、やはり難関であったことを次のように書いている。
「受験生は広い運動場に集合させられたが、(兵庫)県中から志願者が集まっており、受験生でいっぱいになった校庭を見て、「いやあ、これはすごいな・・・」とおどろいた。
 順番に名前を呼ばれて試験会場となった校舎に入り、一斉に試験を受けた。つぎの日に会場に行くと人数が半分になっていた。そして次の日も、その次の日も。前の日の半分になっていた。不合格を言い渡されると、その日のうちに家に帰されていたようだ。・・・・
 第一次試験の一日目は身体検査、二日目からは学科試験。英語(英文和訳、英作文)、数学(代数、平面幾何)、国語、漢文、物理、化学、地理、歴史、作文の試験があった。毎日毎日、志願者が減っていくなか、『俺はいったいいつ帰らされるのかな』と思っても、むこう(海軍)がなかなか『帰れ』と言わない。絶対に受かりたいと志願してきたにもかかわらず、『これはえらいことになったなあ』と不安になった。
 受験の動機などを問う口頭試問が終わり、その場で担当の検査官から、『第二次試験出頭通達書がいくから、それまで家で待機しておけ』と言われた。
 しばらくして海軍省鎮守府から『六日間ノ甲種飛行予科練修生タル飛行兵ノ第二次検査ヲ行フニ付出頭スベシ』という通達がとどき、昭和16年9月、試験会場の広島・呉に向かった。」

 笠井氏はこのあと、航空搭乗員としての身体検査や口頭試問がありようやく合格する。兵庫県の倍率は32倍だった。笠井氏の10期はそれまでの合格者100人前後を1000人まで一気に増やしたときであるが、それでも超難関だったことがわかる。部内選抜あるいは高等小学校卒で入る丙種は、それ以上に厳しかったことは予想される。

 予科連といえどもまずは海兵団では海軍水兵としての基礎訓練を受ける。カッター訓練や軍歌行進などの新兵教育が行われるが、すべて班ごとの競争になっていて、負けると連帯責任となってバッター(樫の棒で尻を叩く)、ビンタ、ゲンコツなどの罰直(制裁)が日常的にあった。バッターで尻の皮がやぶけているのに、カッター訓練は苦しかったという話は何度も父から聞いている。

 海兵団での教育は水兵としての基礎訓練で日常生活そのものが訓練内容となる。起床ラッパで5時に起き、6時に朝食、8時から午前中の課業、12時昼食休憩、13時から16時まで午後の課業、16時45分から夕食、19時から温習(自習)、21時30分消灯。その間、分刻みで細かな日課があり、班長が細かく指導する。全ての作業は他の班と競争であり、負けると全体責任となり全員が罰直をくらうことになる。

 杉田は6月1日から10月15日までの約4ヶ月を舞鶴海兵団で過ごす。





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