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杉田庄一ノート27:「強風〜紫電〜紫電改」その3

 「紫電改」は、「強風」から「紫電」への転換で積み残した問題を解決するために「紫電」設計段階の早いうちから準備された。設計が開始されたのは、「紫電」試作1号機が初飛行して2ヶ月目であった。主な改造は「エンジン直径に合わせて胴体をリファインする」、「主翼構造を中翼から低翼にする」、「脚構造をシンプルで頑丈なものにする」などである。そして、何よりも大きなそして重要な変更点は、生産工程を減らすことだった。

 胴体は直径の小さな中島製「誉」エンジンに合わせて大幅な改造を行なった。円筒形だった胴体断面は、かまぼこ型に整形され低翼構造とつながるように整形された。「紫電」は胴体の肩にあたる部分の膨らみが大きく、前下方の視界が悪かったが、「紫電改」では肩の部分を削られたので操縦席からの視界が向上した。胴体と主翼の結合部の空気の流れをスムーズにするために少し大きめのフィレットがつけられたが、紫電改の形状の特徴的なデザインになった。
 主翼の外形や基本構造はそのまま踏襲したが、低翼にしたため脚柱は短くて良くなり、新設計の脚構造にした。この脚構造だけで100キログラムも軽くなったという。しかし、それ以上に離着陸での信頼性が増したことが大きい。
 片翼2丁の20ミリ機銃のうち1丁が翼下にぶら下げるポッド形式であったのを、2丁とも翼内に収容する構造にした。そして、円筒型弾倉から新開発のベルト給弾方式弾倉にすることで、1銃当たりの装備弾数が60発から200発になった。また、弾丸の初速600m/Sも初速750m/Sに向上した。
 そのほかにも、「紫電」の欠点であった「離陸の際にプロペラ後流と胴体尾部が空力的に干渉して左に傾くクセ」を胴体そのものを延長し方向舵形状を変更することで解決した。
 設計チームが一番腐心した「製造工程を減らす」ことだが、約6万6千点あった「紫電」の部品(エンジン、プロペラ、ボルト、ナット、リベットを除く)が「紫電改」では約4万3千点まで削減することに成功している。
 設計開始から10ヶ月後に試作第一号が完成している。これまでの戦闘機開発は数年かかるのが常識だったことを考えると、戦時下で他の航空機設計も行いながらのこのスピードは設計チームの文字通りの不眠不休の産物だった。

 昭和19年1月はじめ、海軍航空技術厰飛行実験部の主席テストパイロットの志賀淑雄少佐とサブの古賀一中尉によってテスト飛行が行われる。そのときの場面を「紫電改入門」(碇義朗)では次のように記述している。

「こんどの『改』も、表面工作のわるさはあいかわらずだったが、さすがに根本的な再設計を行なっただけあって、胴休も贅肉をおとして引きしまり、「紫電」で問題となった前下方視界も改善されていた。
 『これは良くなっている!』コクピットにおさまった志賀少佐の第ー印象だった。
 操縦桿やフット・バーを操作して、舵の動きを見る。ブースト・レバ—をいっぱいに引く。エンジン回転があがって、轟音がひときわたかくなる。レバーをもどすと、なめらかに回転がおちる。レスポンスよろしい。「紫電」にしばしばみられた過回転のおそれはなさそうだ。これをやられると、たちまちエンジンの軸受が焼きついてアウトだ。不慣れなVDMプロぺラもどうやら問題なさそうだ。

 緊張して見まもる関係者たちにかるく手をあげて、OKの合図。チョークが払われ、タキシングで離陸線に向かう。・・・(志賀は会社の整備をあまり信じるなと注意されていたが、地上滑走テストだけでなくそのまま飛び上がることを密かに決意する)
 はらをすえたところでエンジン全開、ブレークをはなすと飛行機は猛然と走りだした。
 できるだけはやく尾部を上げるため、浮力がつくまでは昇降舵は下げ舵のまま、機速がついて、左右の景色の流れがはやくなリ、尾部が上がったところで静かに操縱桿をもどしていく。浮カがついて、主車輪が地面を切った(車輪が地面をはなれることを、こう表現する)なと感じたところで、チラッと速度計に目をやる。このときの速度を確認するためだ。これより五ノットから十ノットぐらい上を、着陸前の降下速度の目安とする。予備知識なしではじめて乗る機種の着陸も、この速度でやれば絶対に失速しない。
 脚を人れる。すぐ海上に出た。そのまま、真っすぐ上がって高度をとる。
 やがて、左にゆっくりと第ー旋回。右翼ごしはるかに淡路島が見える。

 高度をさらにとって第二旋回。この間に、慎重に舵の効きをためす。補助翼の癖はないか?高度はニ五〇〇メートルに上がり、左前下方に飛行場とそれにつづく鳴尾製作所の広大な敷地が小さく見える。
 『「紫電」にくらべて視界がよくなった』
 志賀は満足だった。
 ここでエンジンを絞リ、速度をおとす。一五〇、一〇〇、九〇と速度計の針がさがり、そろそろ近いぞと思う問もなくグラリとくる。失速の前ぶれだ。すぐにエンジンの回転をあげて機速を冋復する。ついで右旋回。そして左旋回。脚を出す。引っ込める。エンジンの筒温はどうか。湯温はどうか、などをたしかめる。もっとも心配なエンジンも快調にまわリ、振動も思ったより少ない。
 やや速度をあげ、ふたたび旋回テスト。旋回半径をどんどん小さくする。ほとんど垂直旋回までもっていく。グッとGがかかり、翼後縁を見ると、 川西自慢の空戦フラップが、生き物のように張り出すのがわかる。
 こんどは上昇。グングン機首を上げのぼりつめたところで、ガクンと機首が下がって失速反転。これもよろしい。

 これまでのテストで、志賀はこの飛行機が、未完成の感が強かった「紫電」の欠点を克服して、みごとに生まれかわっていることを強く感じた。
 第三旋回。そして第四旋回。ふつうなら、ここからゆっくり着陵のアプローチにはいるところだが、まだ母艦パイロットの癖がぬけていない志賀のやり方は少しばかりちがっていた。

 高度一五〇〇あたリから機首を滑走路に向け、ゆるい降下にはいった。地上すれすれで引きおこし、部隊への引きわたしのため滑走路わきにズラリとならんだ「紫電」の列線をなめるようにして上空を通過。格納庫前で切りかえし、クルリとまわって降りてきた。空母への着艦操作とおなじ、あざやかな着陸だった。」

 このときの着陸のスマートさが、川西航空機のスタッフたちの間で評判になったという。志賀少佐によって紫電改は爽やかなデビューをする。 

 しかし、志賀少佐は厳しい所見を黒板に書く。「おおむね、よろしい。しかし川西さんにはわるいが、『零戦』はこれ以上に洗練されている。海軍が要求している空戦性能にたいして、これでがまだもの足りない」・・・
 厳しい所見に、川西の設計者たちは真剣に聞き入った。その当時のパイロットのスタンダードは「零戦」だった。「重量もエンジン出力も「零戦」の倍あり、おまけに局戦がねらいの「紫電改」を「零戦」と比較するのはどだい無理な話である。」と碇さんもこの評に対して疑問を呈している。志賀少佐自身も、戦後になって
「テスト・パイロットは、つねに飛行機の要求性能、性格が何であるかを頭に入れて評価を下さねばならない。ところがわれわれは、要求や設計の目的と反対のテストをやっていることが多かった。」と反省を述べている。

 志賀少佐はテスト・パイロットになるとき前任の周防少佐から、「最終速試験だけは、絶対にやれよ。これをやらないから、実施部隊に引き渡されてから事故がおこるのだ。」と引き継ぎ時に言われていた。最終速試験とは急降下でどこまで速度を出せるか限界を見極めるテストで、もっとも危険度が高い。零戦も試作機の段階にこのテストで2名の殉職者を出している。急降下による最終速試験は3月はじめに横須賀航空隊追浜飛行場で行われた。
 何回かの試験を行うが3トン半の機体を2000馬力でひっぱって6000メートルから逆落としでも400ノット以上でない。主翼の揚力がじゃまするのだ。そこで志賀は、背面からのダイブで急降下を行うことにする。加速が早く、430ノット(時速796km)を記録した。補助翼の羽布が剥離し、ここが限界と見極めた。
 フラッター(がたつき)も空中分解もおこらない。補助翼の羽布を強化すればいいという結論だった。日本でこれほどの最終速を記録した飛行機はこれまでなかった。頑健さが証明された。

 志賀少佐は、このあと「紫電改」で結成される343航空隊の飛行長となって赴任することになる。あらゆる飛行技能を習得している志賀少佐であるが、杉田らが編隊空戦の訓練をしているのを見て、自分は飛行機を降りオフィサーとして事務方に回ることを決意する。空戦の方法が個人技の格闘戦から編隊飛行による一撃離脱戦に変わったことを感じ取ったのだ。

 343空に実戦配置された「紫電改」であるが、急降下時に空中分解する事故が2回あった。事故調査が行われたがいずれも原因不明であった。テスト・パイロットとして最終速試験を行なった志賀少佐は、自責の念にかられたというが、戦後になって原因と思われることが判明した。亜音速に近いスピードに達し衝撃波が機体を壊したのではないかということだ。その当時は、飛行機が音速の領域に達することは想定していなかった。頑健な紫電改であったが、その性能ゆえに未知の領域に踏み込んでしまうことがあったのだろうと推測されている。

 詳細に「強風」〜「紫電」〜「紫電改」の記述を行ったが、杉田の乗った紫電改がどのような飛行機だったかをおさえておきたかった。それまでの零戦での戦いと全く違う一撃離脱の戦い方を杉田はいち早く会得していた。零戦でも大型爆撃機に逆落としの前下方垂直攻撃で戦果をあげていた杉田であればこそ、紫電改はまさしく求めていた戦闘機であったに違いない。 

 戦後、アメリカ軍によって3機の紫電改が接収された。飛行長だった志賀少佐らが横須賀まで空輸する。機銃をはずし米軍のオイルを入れた紫電改が巡航するのに援護についたグラマンが全速力で追いつけない事態が発生し、痛快だったという。3機はアメリカ本国に運ばれてテストされた。エンジンの電装品をアメリカ製のものにかえ、100オクタンの燃料で飛行させるとスピードはアメリカのどの戦闘機よりも早く、機銃の威力はもっとも大きいと評価された。この3機のうちの1機は、スミソニアン博物館で展示されている。

 第二次世界大戦中の米海軍および米海兵隊の戦闘機搭乗員の空戦記録「太平洋のエースたち」(エドワード•H•シムズ、1989)の中にも紫電改について次のように記載されている。
「日本が開発した最も優れた海軍戦闘機は、紫電改(紫電21型)局地戦闘機であろう。性能はノースアメリカンP−51ムスタング戦闘機とほぼ同程度であったが、生産機数は僅か428機に過ぎなかった。紫電改は全く偶然に開発された存在であったが、あらゆる点でアメリカの艦上戦闘機より優れており、1944年から実戦に投入された。」

「紫電改」(紫電21)の諸元
・乗員:1名
・全長:9.346 m
・全幅:11.99 m
・全高:3.96 m
・翼面積:23.500 m2
・最大離陸重量: 3800kg
・エンジン:誉二一型(離昇1,990馬力)
・プロペラ:VDMプロペラ4翅プロペラ
・最大速度:596 km/h
・航続距離:1715 km/h
・上昇限度:10760m
・上昇力:6000m/7'22"
・武装:20mm機銃×4
・爆装:250kg爆弾×2



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