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杉田庄一ノート88 「杉野計雄氏の語る杉田庄一」

杉野計雄(かずお)氏は、大正10年山口県小野田市の生まれで昭和14年に海軍機関兵として呉海兵団に入団。駆逐艦「黒潮」の艤装員として配置後、そのまま同艦の乗組員になる。下士官による過酷な修正(拳やバッターでの制裁)に嫌気がさし、飛行兵をめざす。難関の内部試験にみごと合格し、昭和16年、丙種予科連三期生(丙三)になる。このとき杉田も高等小学校を出てすぐに海軍少年飛行兵の試験に合格しており、年齢も階級も異なるが同じく丙三同期になった。

予科練を出てから筑波航空隊で搭乗員養成訓練を行う。そのときの教員が中島隆三航空兵曹で、彼の下で6名が練習を行うことになる。そこでまた杉田と同じペアになる。そのメンバーは以下の通り。内部試験からの練習生なので杉野氏だけが階級が上である。( )内は、希望機種。
・杉野計雄二等機関兵(戦闘機)
・谷水竹雄三等水兵(戦闘機)
・杉田庄一三等水兵(戦闘機)
・加藤正男三等水兵(戦闘機)
・篠原三等機関兵(艦爆)
・大内三等水兵(中攻)
そのとき撮った写真が残されている。

中島教員(中央)、左が加藤、右が篠原。後列左から大内、杉野、谷水、杉田

その後、戦闘機専修課程、第六航空隊(六空)まで杉野、谷水、杉田はいっしょだった。ミッドウェイ海戦後に杉野と谷水は空母「大鷹」の搭乗員に転出するが、杉田はそのまま六空に残りラバウル航空戦で活躍することになる。「大鷹」搭乗員から大村空の教員を経て、昭和18年に空母「翔鶴」搭乗員、空母「瑞鶴」搭乗員、そして二五三空に編入して前線で戦う。昭和19年に大分空、レイテ戦においてバンバン飛行場で緊急発進中、敵機に襲われ重傷。20年には台中戦闘機隊で特攻隊員を経て終戦を迎える。戦後は海上自衛隊で教官をつとめた。

「撃墜王の素顔 海軍戦闘機隊エースの回想」(杉野計雄、光人社NF文庫)の中で杉野氏は杉田について次のように語っている。

「撃墜王の上位にランクされ、戦死で二階級特進で少尉になった杉田庄一君は、私とは中練で中島隆教員のペアの教え子である。彼は三歳年下であり、まだ少年の面影が残っていた。海軍では親しくなると、頭文字一字で呼ぶ風習があり、「杉」とか「杉さん」とか言っていた。上級にはさんづけだが、同僚や後輩は呼び捨てにした。
 その杉田君がラバウルで活躍しているという話を風の噂で聞いたことがあった。どちらかというと鈍重なタイプの彼であったが、底知れぬ闘魂の持ち主であると私は察していた。その彼の活躍が素晴らしかったと知り、何よりも嬉しく思う。また彼も私も、離陸中に敵にやられたのも奇しき縁である。その撃墜された状況が、いずれも発進命令のおくれで共通しているのも不思議である」

同書の中でも杉野氏が繰り返し書いていたのが「鉄拳制裁が無意味なこと」である。杉野氏も杉田も「杉さん」と呼ばれ、ともに後輩を鉄拳制裁することがなかった。

杉野氏は「あとがき」の書き出しでも一言、杉田に触れている。
「昭和十七年三月、艦上戦闘機操縦員となって戦列に加わった同期の八十名は、技倆未熟のため、その多くが戦死した。だが、熾烈なラバウル戦線で生き残った杉田庄一上飛曹らは、素晴らしい成長を遂げた」




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