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杉田庄一ノート85 昭和16年4月28日〜16年11月29日「第十七期飛行練習生」

 杉田は昭和15年6月に15歳で海兵団に入り、15年10月第三期丙種予科練習生(丙飛三期)、そして16年4月28日に第十七期飛行(操縦専修)練習生(操練十七期)になっている。この時代の詳しい資料がなかなか見つからなかったのだが、たまたま『撃墜王の素顔』(杉野計雄、光人社)を読んでいたら著者の杉野氏は杉田と同じ丙飛三期の同期であることがわかった。しかも、その後の筑波航空隊での操縦練習生時代は6人のペア(予科練ではグループという意味で使っていた)として1年間ともに過ごしていた。さらに第六航空隊にもいっしょに配属されていた。『撃墜王の素顔』などをもとに杉田の予科練時代、操縦練習生時代を追ってみたい。

 杉野氏は、大正10年生まれ。山口県小野田市の出身で、昭和14年に呉海兵団に入団し、機関兵になる。昭和15年に、駆逐艦『黒潮』の艤装員になり、そのまま乗員となって厦門作戦に参加する。その後、飛行練習生(操縦)を経て第六航空隊、空母『大鷹』戦闘機隊、大村航空隊、佐世保航空隊、空母『翔鶴』戦闘機隊、空母『瑞鶴』戦闘機隊、第二五三航空隊、大分航空隊、筑波航空隊、第六三四航空隊、台中戦闘機隊特攻隊、博多航空隊教員兼務特攻隊というすざまじい経歴をもっている。空戦を100回以上経験し、撃墜32機というベテラン零戦搭乗員で終戦を迎えている。

 駆逐艦『黒潮』の時代、最も制裁が厳しいといわれる機関科に嫌気がさし、操縦士募集のポスターを見て応募・受験し、数百人の応募者の中から予科練生に選ばれた。昭和15年3月杉田と同じ予科連丙種三期を卒業し、操縦練習生として筑波航空隊に入隊する。同期は約120名であったが、5〜6名の練習生ごとに教員がつく。中島隆三等航空兵曹についた6人は以下の通りである。
・練習生 杉野計雄二等機関兵(戦闘機)
・練習生 谷水竹雄三等水兵(戦闘機)
・練習生 杉田庄一三等水兵(戦闘機)
・練習生 加藤正男三等水兵(戦闘機)
・練習生 篠原三等機関兵(艦爆)
・練習生 大内三等水兵(中攻)

 九十三式中間練習機の前で中島教員を囲んだ写真が残されている。


中央が中島教員、左は加藤、右は篠原。後列左から、大内、杉野、谷水、杉田。


 九十三式中間練習機は、前後に二つの操縦装置を備えた複葉練習機で、目立つように赤色に機体が塗られていたので通称「赤トンボ」と呼ばれた。初級の練習機と実際に戦闘や攻撃などを行う実用機の「中間」を埋める練習機ということで『中間練習機』と呼ばれ、ある程度の曲技飛行もできた。前の方に練習生が乗り、後席には指導員が乗った。練習生が操縦をあやまると後席の指導員に長い棒で頭を叩かれることになる。さらに操縦訓練で一定ラインに合格しないと即原隊に戻される。

> 九三式中間練習機(1934)


『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中に以下のような描写がある。

 「直径五センチていどの『指南棒』という樫の棒で後席から教員が頭をバーンと叩いてきた。よく叩かれる人の頭はこぶだらけになっていた。叩かれすぎた練習生の中には飛行帽の中に手拭いを仕込んで衝撃を和らげようとする者もいたが、叩いた感触で教員は見抜き、飛行機を降りてから、『貴様、帽子脱げ!』と命じた。中から手ぬぐいが出てくると、『貴様、こんなものいれやがってぇ』と結局、よけいに叩かれて悲惨だった。」

 中島隆教員のもとでペア6人も九十三式中間練習機で操縦訓練を受ける。厳しい教員が多い中で、中島教員は人格的に優れ、指導力もあり、6人全員が他のペアよりも早く単独飛行を合格した。杉野氏は、機関兵のときにあまりに理不尽な制裁に嫌気をさして飛行兵をめざしたのだが、飛行機操縦員になってからは一度もなぐらたことがなかったと記している。中島教員はその点でも違っていたのだろう。杉野氏は以下のように書いている。

「よい教員に出会うことはパイロットの場合、運不運は他の練習生にくらべて非常に大きく影響するものである。これは、パイロットならだれしも感じたことである。この点、私は世界一の幸せ者であったと思う。吉田松陰先生が立派な教え子を育てられたこととよく類似しているが、良き師に会えることは最高の幸せである。」

 中島教員に育てられたこの6名のペアから杉野(32機撃墜)、谷水(32機撃墜)、杉田(120機撃墜)の3名が日本の撃墜王としてランキングされている。 参考:『日本海軍航空隊のエース』(ヘンリー・サカイダ、大日本絵画)

 さて、『撃墜王の素顔』(杉野計雄、光人社)の中で紹介されている操縦生時代の記述から抜粋する。

 「筑波の練習生は指定された下宿があり、土曜の夜は下宿に泊まることになっていた。・・・・一週間に一度の外泊は楽しみであった。土曜日は偕楽園で有名な水戸や、稲荷様で知られる笠間などに足を伸ばすこともあったが、宍戸町内に分散してある友人の下宿を相互訪問することが多かった。そのため、近所の方とも顔馴染みになり、町中ほとんど知人になった。」
「夜間飛行や編隊飛行、長距離航法飛行で、関東一円を飛んだ。卒業飛行があって、第三中隊機として中島教員が同乗し、私は生まれて初めて八機の列機を従えて飛行した。このことは記念の写真とともに思い出としていまも残っている。
 この飛行が終わって間もなく、卒業の日が来た。私たち四名は戦闘機に決まり、大分海軍航空隊へ転勤となった。
 数々の思い出とパイロットとしての第一段階を、良き土地で良き教員に巡り会えて無事に卒業できることはありがたいことで、感謝一杯だった。そして一等兵に進級し、中練も卒業と、おめでたいことが続いた。しかし、階級は一等機関兵だった。」

 10月1日の定期昇格で杉田も二等整備兵としてこのとき進級している。このあと杉野と同じく大分練習航空隊に転勤し、戦闘機搭乗員専修の訓練を実際の戦闘機で受けることになる。これを終えるまでは、オタマジャクシのしっぽのように原隊がついてまわる。落第したら即原隊に戻らされるためだと考えられる。


> 九十三式中間練習機



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