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杉田庄一物語 その67(修正版) 第七部「搭乗員の墓場」 連日の出撃

 四月下旬、二〇四隊の「飛行機隊戦闘行動調書」をみると、山本長官遭難の日から四月いっぱいほとんどの隊員が連日出撃していることが記録されている。四月二十日から三十日までの記録を拾ってみる。( )内は、中隊指揮官である。三機の場合は小隊指揮官。

 二十日「ガッカイ・ウイックハム方面偵察機直掩」十八機(森崎武予備中尉)
 二十二日「ノーウエ泊地上空哨戒」三機(杉原眞平一飛曹)
 同  日「青葉上空哨戒」三機(日高義巳上飛曹)
 同  日「ブイン行陸攻隊直掩」十一機(宮野善治郎大尉)
 二十三日「ブイン上空哨戒」十八機(宮野善治郎大尉)
 同  日「ラバウル・ブイン間輸送機直掩」三機(神田佐治二飛曹)
 同  日「ブイン上空哨戒」十二機(日高義巳上飛曹、宮野善治郎大尉)
 二十四日「ブイン上空哨戒」十二機(森崎武予備中尉)
 二十五日「ガッカイ島陸攻隊直掩」二十一機(宮野善治郎大尉)
 同  日「ブイン往復輸送機直掩」四機(野田隼人飛曹長)
 二十六日「ガッカイ島攻撃(艦爆隊)上空哨戒」二十一機(宮野善治郎大尉)
 同  日「ブイン行輸送機直掩」三機(岡崎靖二飛曹)
 二十七日「ブイン行輸送機直掩」四機(尾関行治上飛曹)
 二十八日「ズンゲン進撃哨戒」六機(鈴木博一飛曹)
 二十九日「バラレ行輸送機直掩」五機(野田隼人飛曹長)
 同  日「敵機追撃」二機(日高義巳上飛曹)
 同  日「バラレ上空哨戒」十七機
     (渡辺秀夫一飛曹、杉原眞平一飛曹、鈴木博一飛曹)
 同  日「ルッセル島攻撃」十八機(宮野善治郎大尉)
 三十 日「レカタ上空哨戒」六機(渡辺秀夫一飛曹)

 このうち杉田が編成に入っていたのは二十二日、二十三日、二十五日、二十八日、二十九日、三十日である。
 休みなく連日のように出撃しているが、二十日をのぞいて多数機で出撃するときは必ず宮野大尉の指揮だったことがわかる。敵と空戦になったのは二十八日のズンゲン上空での哨戒任務時だけで、B17爆撃機を攻撃し、左エンジンに黒煙をはかせたが逃げられている。杉田は第二小隊二番機として出撃している。この頃、杉田は二番機として編成されることが多かった。

 小福田少佐の入れ替わりに横山保少佐が飛行長として二〇四空に着任する。第一声は次のようなものだった。

「横山少佐、ただいまより飛行長としての指揮をとる。諸君の大部のものは、開戦以来、蘭印方面よりこのラバウルに転戦し、連日奮闘されていることは、まことにご苦労である。初戦のあの華々しい戦闘にくらべ、 今日では毎日が苦しい戦闘をつづける結果となっている。私が内地を立つときに言われてきたことは、必ずパイロットも、零戦もラバウルの前線へ送り出すということだった。 この内地からの増援兵力が到着するまで、もう少し頑張ってくれ」

「あゝ零戦一代 零戦隊空戦始末記」(横山保、光人社)

 横山は海兵五九期生で、大分空分隊長のあと日中戦争時には十三空分隊長、その後十二試艦戦を用いた実戦配備として十二空分隊長を経験し、太平洋戦争開戦時は宮野のいた三空飛行隊長兼分隊長だった。今度は、横山が飛行長、宮野が飛行隊長としてコンビを組むことになった。「あゝ零戦一代 零戦隊空戦始末記」(横山保、光人社)に横山は着任時の状況を書いている。

「私が赴任した時は、山本連合艦隊司令長官が、ブーゲンビルで戦死された直後であった。それだけに戦闘機隊としての責任を感じていたと同時に、ズバリ言うならば、彼らの士気があまり上がらない時期でもあったのだ。しかし、宮野大尉はそれでも、ひと言の不平も言わず、やせ細った顔を終始ニコニコさせながら、先頭にたって飛び立っていった。この基地の士気を高めるのは自分の責任だ、と考えたかのように・・・」

「あゝ零戦一代 零戦隊空戦始末記」(横山保、光人社)


 宮野もまだ二十代、強い責任感のもとで命を削るような毎日を送っていたように思える。リーダーとはどうあるべきかを若い搭乗員たちに身をもって示していたし、若い連中はこのリーダーだからこそ命をかけて戦えると思っていた。

 着任早々、横山は杉山司令から爆装零戦による艦戦攻撃ができないか研究してくれと頼まれる。速度の遅い艦爆による攻撃は敵の餌食になるばかりで死傷率も高く、新型の艦爆もまだ間に合わないこの時期、速度の速い零戦による爆撃ができないかということが懸案になっていた。杉山司令は、横山がかつて空母「蒼龍」の母艦搭乗員だった時、九六戦で大陸沿岸の港封鎖のための爆撃を行ったことを知っていたので、こんなことを提案したのだ。しかし、零戦には爆撃用の照準器もなく、速度超過の恐れのある急降下爆撃もできないため、「艦爆の代わり」はかなりの難題だった。
 ラバウル基地の倉庫には三十キロ爆弾が使われずに多く備蓄されていた。さっそく、宮野大尉たちとこの小型爆弾を使って、照準点と弾着点の関係や降下角度などを検討した。実際にやってみると弾着のばらつきが多く、命中弾を得ることが難しいことがわかった。それでも、艦船の首尾方向に沿って爆撃すれば、なんとか命中弾を与えられる可能性があることもわかった。
 ところが横山は、実戦で効果を見る前に着任一月あまりで南東方面艦隊兼第十一航空艦隊の参謀として、司令部に転勤することになり、あわただしく転勤していく。数年前の戦闘機無用論などが影響して横山クラスの海兵出身航空隊将校の数はあきれるほど少なく、参謀ポストは常に逼迫していた。

<引用・参考>

国立公文書館アジア歴史資料センター


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