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杉田庄一ノート81 昭和20年8月「菅野直大尉死す」

8月1日、沖縄方面からB-24爆撃機30機が南西諸島を北進中という情報が入り、343空は菅野大尉の指揮下で迎撃に向かう。新しい『紫電改』の補充は絶えており、20数機での出撃だった。屋久島近くに達するとB-24の編隊と接敵した。反航する形で攻撃に入る。一撃をかけて急降下中に『ワレ機銃筒内爆発ス』と無電電話が入るのを堀光雄飛曹長が聞く。堀飛曹長は、菅野大尉の第一区隊に続く第二区隊の区隊長であった。堀飛曹長の証言である。

 「機を引き起こしながら隊長機を探すと、前上方に引き起こしているはずの隊長機が見えない。機を水平に戻して、四周を見まわしたがやはり見えない。翼を傾けて右下方をのぞくと、ずっと下を水平に飛んでいるのが目に入った。すぐに降下して隊長機に接近した」


 このとき菅野編隊の四番機は、田村恒春二飛曹だった。田村二飛曹は、杉田区隊の四番機を務めていたが、杉田区隊が消滅したあと地上勤務などを経て菅野区隊の四番機に抜擢されていた。田村氏の証言である。

 「B24編隊に対し、まず菅野隊長と三番機が攻撃に入った。つづいて二番機と私。B24の一機から燃料が吹き出すのが見えた。引き起こしてもう一撃かけようと二番機についたとき、不意に上から黒い影が降ってくるのが見えた。<戦闘機か?>と思ったが、確認できないまま二番機と私は、とっさに垂直旋回で退避した。そのため菅野隊長とはぐれてしまい、合流することができなかった。」

 電話の感度のせいか、田村氏は菅野大尉の声を聞いていない。筒内爆発は、自分の機銃内で弾丸が爆発することだ。自機の翼に大穴があき、場合によっては飛行困難になる。

 堀飛曹長は、隊長機の左後ろにつけると左翼に大きな穴があいていて、速力も落ちていた。隊長機を護衛しようとした堀飛曹長に向かって指信号でB-24を攻撃しろと合図が送られる。堀飛曹長はそれでも離れずについていたが、菅野大尉は左手で何度も敵の方を指差して、堀飛曹長を睨みつけた。攻撃しろという合図だ。堀飛曹長は、無視して菅野大尉についていた。だが菅野が指差したB-24と紫電改の空戦はおそまつなものだった。遠くから撃ち始め、早めに避退している。以前、杉田が笠井氏を鉄拳で修正したのと同じ攻撃ぶりだ。菅野大尉もこういうのが一番きらいだ。我慢ならないのだろう。菅野大尉は堀飛曹長を睨んで拳を振り上げている。仕方ない隊長の命にしたがうしかないと、B-24の攻撃に加わった。

 「空戦ヤメ、アツマレ」と菅野隊長の無電が入り、堀飛曹長は集合場所に向かうが菅野大尉はいなかった。その後、「カンノ一番、カンノ一番」と呼びかけたがとうとう見つからず基地にもどり、志賀飛行長に報告した。その日、とうとう還ってくることがなかった。四機のP-51マスタングが10時15分に日本陸軍戦闘機『疾風』を撃墜したという記録が残されている。『紫電改』と『疾風』を誤認したことも考えられる。筒内爆発で飛行できなくなったところを墜とされたのかもしれない。行方不明のまま戦死が認定された。

 菅野の行方不明になった8月1日付けで、連合艦隊司令長官による全軍布告として杉田に対する個人感状が出され、杉田は二階級特進して少尉になった。以下は感状の文面である。
 「克く部下列機を掌握し 一糸乱れず飛行機隊指揮官の戦闘指揮を容易ならしめるのみならず 自らも亦 挺身勇戦奮闘出撃毎に抜群の戦果を収むるを恒とし個人撃墜七〇機 協同撃墜四〇機に達する偉効を奏せり
 斬くの如きは常任座臥戦闘機搭乗員の真髄に徹したるのみならず全軍の作戦遂行に寄与する所極めて大にして其の武功抜群なり
 依って茲に其の殊勲を認め全軍に布告す
     昭和二十年八月一日
     第五航空艦隊司令長官 宇垣 纒   」

 菅野大尉が戦死した後、もう第一線での戦闘はしないといっていた志賀飛行長が再び完熟飛行を始めた。紫電改開発時のテストパイロットをしていた腕前であるが、ここにきて再び指揮官として空中戦を自ら行うことを決意したのだ。それを見ていて源田司令も、最後は自分が出陣する覚悟をしている。

 8月8日、約300機の敵機来襲に対して24機で迎撃を行った。飛行機も補充されず、搭乗員も欠員になっているが、士気だけはまだ衰えていなかった。 

 8月15日終戦となる。

 9月20日 菅野大尉も二階級特進で中佐となった。





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