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飛行機の本#39『零戦7人のサムライ』(森史朗)

小学生の時から零戦は好きでなかった。正式には「レイセン」と呼ぶらしいが、当時から海軍でも「ゼロセン」と言っていたらしい。最初に作ったプラモデルも「ゼロセン」、当時の少年漫画はみな「ゼロセン」。スタイルは優等生そのもので、どこにも落ち度が見つからない。その筋の本を読んでみても、たいがいは「速くて、遠くまで飛ぶことができて、格闘戦では無敵だった」と書かれている。飛行機の代名詞のように「ゼロセン」という言葉が使われていた。今でも、飛行機のプラモデルの写真を見せると誰もが「ゼロセン」ですか?と言う。・・・だから、「ゼロセン」は好きでなかった。

実は、零戦が優等生すぎるがために後継機が遅れ、大戦の中期には取り返しのつかない差が敵国機(アメリカ機)との間にできていた。

この本は7人の零戦搭乗員の話である。生存している搭乗員や遺族からのインタビューをもとに書かれているドキュメンタリーだ。2015年に書かれていて、インタビューで起こすにはギリギリの年数であったと思う。どのようにこの7人を選択したかは書かれておらず興味があるところである。以下が森氏の選択した7人である。

1 新郷英城元海軍中佐:中国戦線から搭乗員として活躍し太平洋戦争後半は343空の飛行隊長として指揮をとった。戦後は航空自衛隊で空将を務めた。

2 志賀淑雄元海軍少佐:新郷と同じく中国戦線当時から活躍し、最後は新郷のもとで飛行長だった。特攻を隊として拒否した。戦後はノーベル工業会長。

3 上原定夫元上飛曹:少年飛行兵に志願して搭乗員になった。ラバウル戦線で世界的に有名になった坂井三郎を事実上ささえていた。戦後はヘリコプターパイロットになった。

4 鈴木実元中佐:太平洋戦線では珍しいイギリス空軍スピットファイヤーとの戦闘で圧倒的な勝利をした。戦後は、キングレコードの常務として活躍。カーペンターズブームを日本で仕掛けたので有名。

5 杉田庄一元上飛曹:少年飛行兵として志願。戦線に出たのはミッドウェイ戦以降であるが、日本軍最多撃墜数を記録。343空で戦死した時に全軍布告感状が出された。

6 岡本高志元少尉:志願兵として整備兵から出発し、搭乗員に転科。航空母艦搭乗員として活躍し最後はやはり343空。戦後は初のジャンボ機機長。

7 敷島隊の5人:最初の特攻隊「敷島隊」の5人のエピソード。実は特攻を命ぜられてから3度出撃したが敵を見つけられず、4度目の出撃で体当たり攻撃を行なった。その間の思いはいかばかりのものか・・・


343空(第343航空隊)に所属した者が多いが、大戦末期に優秀搭乗員を集めて結成された隊であるからだ。


搭乗員の写真が多く掲載されているが、みな若いことに今更ながらに違和感をもつ。20歳前後で最前線にいたのだ。


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