三菱 局地戦闘機「雷電」 J2M(1942)
局地戦闘機という形式は、日本海軍独自の呼び方で、広い太平洋に分散される陸上基地で邀撃あるいは迎撃を目的とした戦闘機として開発された。昭和14年(1939)に三菱航空機が単独開発指名を受けたので、14試局地戦闘機と呼ばれた。三菱では零戦を開発した堀越チームが設計を受け持つ。
局地戦闘機は乙戦とも呼ばれた。甲戦は空戦性能と航続距離重視、乙戦は速度と火力重視、丙戦は対爆撃機専門という規格分類が作られていたのだが、実際には乙戦が対爆撃機攻撃に使われ、夜間攻撃機が丙戦と呼ばれた。現代では邀撃あるいは迎撃を専門にする戦闘機はインターセプターと呼ばれ、日本の航空自衛隊のF-15もインターセプターとして日々、不審機への対応をしている。ちなみに邀撃も迎撃も敵を迎え撃つということで、邀撃には望むところに呼び込むという意味が付加される。
邀撃機あるいは迎撃機は速度と上昇力、そして火力が重視され、長距離航続性能はあまり問われなかった。大馬力エンジンを積めばその要件を満たすことができる。しかしその頃、日本には爆撃機用の大馬力エンジンしかなく、大きなそのエンジン(三菱火星一三甲型)を改良して使うことにした。
流線形を確保するためエンジンとプロペラの間隔を長くとり、紡績型のカウルで整えた。狭い流入口を使って空冷エンジンを冷却するために強制冷却ファンを取り付け、プロペラは大直径にする。その構造が原因と思われる振動に悩まされ、エンジンに起因するさまざまなトラブル解決に時間がかかった。そのため制式機になったのは昭和17年(1942)であった。まだ解決しなければならない修正点があり、ようやく昭和18年に前線に出されることになる。
しかし、視界が良く手を離しても勝手に水平飛行している零戦が主流だった時代、視界が悪く離着陸が困難で飛ばすのが難しい雷電は嫌われた。事故も多かった。ただその頃から大型爆撃機による爆撃を迎え撃つ邀撃・迎撃の必要性は増していたので、雷電は活躍の場を得る。B-29が本土爆撃を始めると、防空戦闘機として期待された。排気タービン機への改造も行われたが試作機の段階で終戦となった。
当初、南方戦線での航空戦に配備されたが、戦線後退とともに内地の基地航空隊に配備される対B-29爆撃機攻撃に当たった。厚木基地では斜め銃を装備した雷電も使われたが、操縦席の左下の胴体から銃口が突き出る配置で変わっていた。
航続距離のない雷電は、特攻機に使われることがなかった。
<雷電21型>
全長 9.695m
全幅 10.8m
全備重量 3,507kg
発動機 火星二三甲型(離昇1,800hp)
最高速度 596.3 km/h(高度5,450 m)
航続距離 2,500km(爆弾積載時)
武装 20mm機銃×4 30または60kg爆弾2発
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