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杉田庄一物語 その70(修正版) 第七部「搭乗員の墓場」 六〇三作戦

 劣勢を挽回するために、ふたたび「い号作戦」のような敵航空兵力の撃滅を図らねばならぬと第一基地航空部隊は「六〇三作戦」を立案する。第五空襲部隊と第六空襲部隊所属の戦闘機隊、艦爆隊及び陸偵隊で、ガダルカナル島沖輸送船団攻撃を軸として米航空機を撃滅するという作戦である。母艦飛行機隊は内地で再編中であり、また、他方面へ投入予定もあって協力を得られないため、基地航空部隊のみで決行することとなった。作戦は二段階で構成されていた。まずは敵航空機を事前に誘い出し戦闘機によって撃滅する「ソ作戦」と戦爆連合による敵艦船攻撃ならびに敵航空機を撃滅する「セ作戦」である。「ソ作戦」実施は六月七日、「セ作戦」は「ソ作戦」実施後と決定された。

 五月二十八日、この日から二〇四空では、宮野大尉の発案で一個小隊四機編成の訓練を始めた。二機を戦闘最小単位として、相互に支援警戒を行い四機で一小隊を組む方式だ。米軍はすでに四機編隊で空戦を行っており、二機相互にカバーしあうので防御が固くなっていた。また、攻撃も二機連携して行うため空戦技術が未熟な零戦搭乗員だと撃墜されることが多く、ベテランすら押され気味であった。それに対抗するためには日本軍機も編隊で対抗しなければならないと宮野大尉が考えたのだ。ちょうど一月ほど前に着任した飛行長の横山保少佐が、十三空第一分隊長の時から四機編隊による実戦を九六戦で行っていた。横山は十二空でも、零戦一個小隊を二機とする編成を試行している。編隊飛行はラバウルを基地とする他の飛行隊、五八十一空や二五一空でも取り入れられ、その後急速に広まっていくことになる。

 編隊による空戦を編み出したのは、1938年のスペイン内乱時のドイツ空軍で、ヴェルナー・メルダースの考案によると言われている。編隊長機と僚機(日本海軍では列機)の二機が最小単位でロッテ(分隊)という。ロッテが(分隊)二つ組み合わされてシュヴァルム(小隊)となる。親指を除く四本の指先をそろえた形で編隊の位置を決める。これをフィンガーフォーといい、中指の位置に小隊長(兼第一分隊長)、人差し指の位置に三番機(第一分隊列機)、薬指の位置に二番機(第二分隊長)、小指の位置に四番機(第二分隊列機)がくる。それぞれの高さは8メートルの高度差をとり、編隊長が一番高い位置につく。

 日本陸軍は、Bf109を飛行試験のため輸入した時にドイツ空軍のパイロットから編隊での動きを伝授され早くから取り入れたが、日本海軍は1943年半ばまでほとんどが三機で編隊を組んでいた。海軍の実戦部隊で最初に取り入れたのが、連日のように米戦闘機編隊と緊迫のつば迫り合いをしていたラバウル航空隊で、特に二〇四航空隊の宮野善治郎飛行隊長が四機編隊を積極的に押し進めた。

 すでに米軍は四機編成にシフトしており、一機を追っているともう一機に襲われるというケースが相次いでいた。サッチ・ウィーブといわれる編隊空戦の戦法である。格闘戦に持ち込もうとする日本機は対応できないでいた。編隊空戦の訓練が十分でない若い零戦搭乗員は敵に喰われることが多く、練達の搭乗員も思わぬところから現れる編隊僚機に擊墜されることが目立って増えていた。

 宮野は、米軍機と同じように一個小隊四機編成で対応しなければと考えた。一・三番機、二・四番機が最低限一組になって二+二で相互に支援するアイデアだった。編隊空戦を前線で戦いながら訓練するのは勇気のいることだったと思われる。宮野は率先して編隊空戦に取り組んだ。それまでは自己責任で空戦を行なっていたのを編隊の仲間の命を預かって集団で飛ばなければならないのだ。自己の技量で戦いぬいてきたベテランの搭乗員ほど、二の足を踏んでいた。

 六月二日のブインでの輸送機直掩任務から実戦でも四機編隊でのぞむことになった。この日は、四機二個小隊の八機で哨戒任務についている。編成は、第一小隊一番機辻野上豊光上飛曹、二番機大原亮治二飛曹、三番機今関元晴二飛曹、四番機根本兼吉二飛曹、第二小隊一番機坪谷八郎飛曹長、二番機小林正和二飛曹、三番機渡辺清三郎二飛曹、四番機八木隆次二飛曹である。

 続く六月三日もブインでの輸送機直掩任務があり、このとき杉田ははじめて小隊長として出撃している。そのときの編成は、第一小隊一番機鈴木博上飛曹、二番機人見喜十二飛曹、三番機岡崎靖一飛曹、四番機浅見茂正二飛曹、第二小隊一番機杉田庄一二飛曹、田二番機中勝義二飛曹、三番機田村和二飛曹、四番機中村佳雄二飛曹。

 六月二日と三日のブインでの輸送機直掩任務は、両日とも士官が中隊長として入っていない。比較的、問題のない任務だったのかもしれない。杉田も編隊一番機つまり小隊長としてデビューした。二日とも敵機と遭遇することがなく、戦闘記録にも「異常なし」と書かれている。

 十五志の二飛曹同期が多くいる中で、杉田が最初に編隊指揮官に命じられた。以前の三機編隊では小隊長の左右に二番機と三番機がつき、攻撃時は隊長のあとを追って単縦陣になるので、小隊長は列機をあまり気にしないでも良かった。四機編隊の編隊長は二機ずつのエレメントの動きも考えながら動かねばならず、これまで以上の技量が求められることになる。この数ヶ月の戦闘で杉田は操縦技量が宮野隊長に認められるようになっていた。

 六月の二〇四空の出動を飛行機隊戦闘行動調書で追ってみる。( )内は指揮官。

 二日「8F輸送機直掩」八機(辻野上豊光上飛曹)
 三日「8F輸送機直掩」八機(鈴木博上飛曹)杉田編隊長デビュー
 四日「スルミ方面敵機邀撃」二十四機(森崎武予備中尉、日高上飛曹、日高飛曹長)
 五日「基地上空哨戒兼訓練」一機(杉原眞平一飛曹)陸偵に接触され戦死
 六日「ブイン進出」三十二機(森崎武予備中尉、宮野善治郎大尉)
 七日「敵機追撃・空輸」三機(日高鉄夫二飛曹)
 同日「ガダルカナル島方面敵航空兵力撃滅」二十四機(宮野善治郎大尉、森崎武予備中尉)
 九日「ブインラバウル往復」五機(森崎武予備中尉)
 十日「カビエン−ラバウル空輸」二機(橋本久英一飛曹)

 十一日「ブイン進出」二十四機(宮野善治郎大尉)
 十二日「ガダルカナル島敵航空兵力撃滅」二十四機(宮野善治郎大尉)
 十三日「カビエン−ラバウル潜水艦制圧」三機(森崎武予備中尉)
 十六日「ツラギ、ルンガ泊地敵艦戦攻撃艦爆直掩」二十四機(宮野善治郎大尉)
 十八日「ラバウル、ブイン進出」十機(日高初男飛曹長)
 同 日「カビエン空輸」二機(橋本久英一飛曹)
 同 日「敵機追撃」五機(白川俊久一飛曹)
 二十日「敵機追撃」六機(大正谷宗市一飛曹)
 二十一日「ラバウル、ブイン進出」八機(尾関行治上飛曹)
 二十二日「輸送機直掩」二機(仁平哲郎飛曹)
 二十四日「ラバウル、ブイン進出」八機(日高初男飛曹長)
 二十六日「敵機追撃」三機(田中利男一飛曹)
 同 日 「基地上空哨戒」三機(仁平哲夫飛曹)
 二十八日「輸送機直掩」二機(仁平哲郎夫曹)
 三十日「ラバウル、ブイン進出、輸送機直掩」六機(越田喜佐久中尉)
 同 日「レンドバ邀撃戦」十八機(渡辺秀夫上飛曹)

 戦闘行動調書には空戦時の各機の弾丸消費数がていねいに記録されているものもある。記録者によって雑に書かれていたり、誤記があったり、さまざまであるが。この弾丸消費をひろってみると、あきらかに杉田は七・七ミリ機銃よりも二十ミリ機銃を多用していることがわかる。 

 七・七ミリ機銃は、威力は小さいが直進性がある。逆に二十ミリ機銃は、当たれば一発で相手を倒すこともできるが初速が遅く、ションベンだまと揶揄されるように弾道が放物線を描いてしまう。敵に接近して撃たなければ当たらないのだ。双方が高速で空中戦を行なっているとき、遠くからでも多くの弾丸をばらまける方が安全な上に命中弾を与える確率が高い。初心者は恐怖心のため早くから七・七ミリを撃ち始める。引き金を引いていることが安心感につながるのだ。また、日中戦争当時に活躍したベテランの搭乗員の中にも七・七ミリの方を好む者がいた。その頃であれば、それでも敵機を墜とすことができたが、この時期の米軍機は防弾構造がしっかりできていて、七・七ミリで命中弾をいくら与えてもびくともしないようになっていた。猛接近し二十ミリ機銃の命中弾を与えないと確実に敵を落とすことは困難になっていたのだ。それには、胆力と操縦技術が伴わなければならない。

 「本田稔空戦記」(岡野充俊、光人社)の中に次のような本田の語りがある。

「よく空戦記などを読むと、バッタ、バッタと墜とすような印象を受けるが、あれとて長い期間のうちに、墜とした時のことだけが強調されており、その間の空白は描いていないので、何だかいとも簡単に引き続いて墜としているような錯覚に陥るのである。
 空気銃で木の枝に止まっている雀を撃つのとは訳が違う。映画を見ていてもそうだ。照準器に入ったらすぐ機銃の引き金を引けば、敵機は簡単に墜ちるような印象を受けるが。
 とてもとてもそんな甘いものではない。こちらの機体を敵機にぶつけるくらいの距離まで、近寄らなければ墜とせるものではない。数あるうちには実に簡単に墜ちることもあるが、そんなことは極めてまれであり、時には全弾を撃ち尽くしても一機も墜とせない時がある。
(中略)
 理論ではいとも簡単に説明がつくが、実際には自分の飛行機の姿勢やG(重力)のかかり具合など複雑な要素が入り込んでいるので、そうそううまく当たるものではない。娯楽場のゲームのように、相手側だけが動いているような単純なものではない。だから逆に言うと、はるか彼方から威嚇射撃よろしくデモンストレーションをやって来るような敵は恐れるに足らずで、とって返して手玉にすべき相手であり、一発も発射せずに猫が獲物をねらうようにじっと機をうかがって、チャンスあれば一気に墜ち取ろうとばかりにピタリと後についてくるのはまずベテランであり。 何らかの手を使って逃げないと危ないのである」

 「本田稔空戦記」(岡野充俊、光人社)



<引用・参考>

国立公文書館アジア歴史資料センター


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