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杉田庄一ノート16:昭和20年3月〜「三四三空隊誌」その2

 昭和20年初頭、343空は中間練習機による操縦訓練を終えたばかりの若手と激戦をくぐり抜けてきたベテラン下士官とで激しい編隊空戦の訓練を重ねる。特に菅野の率いる戦闘301隊(新撰組)はいち早く錬成に入り、厳しい訓練を重ねていた。

 3月に入ると、他の隊も編隊空戦の訓練を本格的に始める。その頃のことを志賀淑雄飛行長の「隊史概要」で知ることができる。
「3月1日 硫黄島遂に玉砕
 戦闘402飛行隊は、二十日間の名目上の在籍のまま六〇一空に編入替となり離脱す。
 出始めの遅れていた維新隊も既に八対八の編隊空戦に移り、勇壮そのものの編隊離陸では、各飛行隊が如何にして早く集合するかを密かに競い工夫する姿が見えていた。それ等は司令と各隊長の間でガッチリと統一された思想の下に、それぞれの性格なりに統率された各飛行隊の闘志と若さによるものであり、また一つには松馬、宮崎、大原、本田、堀(三上)、田中、指宿、下鶴、杉田等各老練パイロットが若い隊長、分隊長にピッタリと従って若い搭乗員を指導し叱咤したためであった。
 一月着任した飛行長は、各隊長を観察し、分隊長以下の気風を見て、若い彼等が自分達とちょっと違ったものを持っているのを感じとった。それは訓練されて実戦に入っていった人達と違って、翼が生えるか生えないかの姿で戦場に投入され、闘志と若さで戦場を乗り切り、体験し、戦運に恵まれて銃火の洗礼のなかで育ってきた若者の姿であり、これから同じ道を辿って行こうとするパイロット達であった。」

 志賀は転勤前までテストパイロットをしてきた紫電改の操縦を343空飛行長になってからやめている。空戦の方法がこれまでの零戦による名人芸によるものから編隊空戦に変わったことを実感し、若いパイロットたちが切磋琢磨の中で育っていくことを感じ取っていたのだと思う。老練と書かれた杉田だってこのとき20歳だ。確実に時代が変わったのだ。
 ところがここに触れられなかったベテランがいる。坂井三郎だ。彼はすでに20代後半になっており、ベテラン中のベテランになっていたのに名前が出てこない。それどころか、343空編成時から所属していたのに坂井はたくさんある書籍や講演でほとんど343空に触れていないのだ。また、この「三四三空隊誌」中でも全体の記録の中で出てくるだけでエピソードはまったく書かれていない。この辺のいきさつは推測するしかないのだが、1年前の昭和19年初頭、大村航空隊で坂井と杉田は共に教員をしている。このとき杉田は実機に乗って実践的な編隊空戦を教え込んでいたが、坂井は自分の空戦を講話で長々話すことが多く、二人に確執が生まれていたという。年齢も階級も大きく隔たりがあるので喧嘩になる術もないのだが、坂井の講話について「零戦なんか手を離せば自然に平常飛行に戻るのに、目が見えなくなって背面飛行に気付かなかったなんてことはありえない」と否定していた。また、坂井は紫電改について好印象をもっておらず、ダメ出しをしている。やはり時代から遅れていく自分を感じていたのだろう。343空での若手指導も鉄拳によるものが多かったという。志賀はあえて坂井のことに触れていないと思われるが、この頃から343空にふさわしくないことを感じていたのだろう。杉田が戦死した時に源田司令は、杉田の代わりに武藤金義を横浜空から呼び寄せる。トレードとして出されたのが坂井だった。

 さて、編隊空戦の訓練であるが杉田区隊はその中でも完成度が高かった。他の隊が下士官による修正が飛ぶ中、戦闘301隊では訓練が終わると松山の町に駆け足で繰り出し、今井琴子さんの家(隊の集会所のようになっていた)に集まり、どんちゃん騒ぎを行なっていたという。階級関係が厳しい海軍の下士官兵でこのような関係を築いていたことは奇跡的なことである。菅野直をはじめ、士官も下士官も兵も仲がよかったという今井さんの証言がある。他の隊では、若い兵隊さんは叩かれて青くなっているのでお風呂に入るときにお尻を隠しているという話を聞いたが、301隊ではそんなことはまったく感じなかった。みんなで大きな声で歌を歌ったり騒いだりで楽しそうだった。特に杉田さんのどじょうすくいが印象に残っていると話している。今井さんは、頼まれて「ニッコリ笑えば必ず墜とす」と刺繍の入った紫のマフラーを301隊に寄贈する。このエピソードについて笠井さんの記録を『その1』に書いた。杉田隊四番機の田村恒春さんもこのエピソードを「三四三空隊誌」に書いている。

「私は、ラバウル、パラオ、比島で活躍され、連合艦隊司令長官山本五十六大将の護衛を務めた擊墜王の杉田庄ー兵曹の区隊、菅野小隊第二区隊の四番機に選ばれ、二番機にはパラオ、比島で活躍した笠井上飛曹。若年搭乗員の私が先輩搭乗員が多 くいるのにどうしてと暫らく信じられない気持で一杯でした(杉田は山本五十六護衛機だったことを死ぬまで秘密にしており、田村さんも戦後初めて知ったと思われる)。
 同期の仲が堀区隊(現三上さん)の四番機、伊沢が橋本区隊の四番機に選ばれその責任の重大さを感じました。
 二月下旬から三月上旬に区隊編成が決まってからの杉田区隊の訓練は実戦以上のもので、ニ対ニの編隊空戦訓練から始まり、急上昇、垂直旋回、急降下、宙返りと、私は笠井兵曹に離れぬよう早め早めにスロットルを操作しても時々離れ、地上で見ていたS少尉にお叱りを受けたが、杉田兵曹、笠井兵曹は何も云わずに指導してくれました。
 編隊訓練時スピード計をよく見ましたが、 常時三百節から三百四十節くらいを指しており、耳鳴りがし翼端から飛行雲が出ているのが常でした。ニ機対ニ機、四機対四機、八機対八機、十六機十六機の編隊空戦も会得し、ニ十四機の編隊離陸も出来るようになった三月十日頃、敵の大機動部隊出現の報に警戒態勢、 地上待機に入ったと思います。(紫電改の翼端から飛行機雲が流れることがあったという話は他の方も話しておられる。速度の襲い零戦ではありえなかった)
 三月十八日、敵機動部隊発見の報に稼動機 全機飛び上がるも敵機を見ず全機帰投す。
 兄弟のような杉田区隊の搭乗割。一番機べ テラン杉田上飛曹、二番機笠井智一上飛曹、 三番機
沢豊美ニ飛曹、四番機田村恒春飛長 (杉田区隊の「ニッコリ笑えば必ず墜す」の紫のマフラ—を全員巻いて)」

 さて、翌日の3月19日にもアメリカ軍機による大空襲があり、杉田区隊は大活躍をして司令から区隊擊墜賞をもらうことになる。実はこのときの空戦に、腹を壊して笠井さんは登場割から外れ、代わりに横島上飛層が入っている。この日の空戦を四番機だった田村さんの記録からみてみる。
 「三月十九日。搭乗員起しと共に飛行服に身を固め杉田区隊のニッコ笑えば必ず墜す」の紫のマフラ—を襟元に締め、隊舎を出ると、 暗い中轟々とエンジンの試運転の爆音が聞え てくる。整備員の方々の御苦労に感謝しながら飛行場に走る。搭乗員全員集合がかかり、 源田司令の訓示。続いて志賀飛行長の敵情報告があり、我が三〇一飛行隊は剛管野隊長の指示、注意を受け機上待機のため海岸線に列線を引いた、搭乘機に向う。私の搭乘機は 「A—一三」号機であった。
 本日の搭乘割は一番機ベテラン杉田庄一上飛曹、二番機横島敏上飛曹、三番機
沢豊美ニ飛曹、四番機田村恒春飛長でした。何時もは二番機に、私が信頼し親しみをもっている次兄のような笠井智一上飛曹なのにと、残念だと思う気持を胸に機に乗り込む。発進態勢をとり機上待機する。十分くらいたった頃突然レシ—バーに英語がペラペラ入ってくる。 水晶発振器を盗まれたのか、周波数が同じなのに驚くと共に、 敵さん来たなあコンチキショウと気合が入る。数分後全機発進の命令が飛び込んでくる。
 早くも七〇一飛行隊が離陸開始。続いて四〇七飛行隊、我が三〇一飛行隊が最後である。
 もうもうと上る砂煙りの中離陸位置に着くと同時に、管野隊長を先頭に杉田区隊、柴田区隊が一斉にスロットルレバーを入れ、一糸乱れぬ編隊離陸を敢行する。脚を収めながら今日こそは大空で死ぬんだと決意する。(三〇一飛行隊の機数は五区隊から六区隊二十数機と記憶する。)
 編隊は海に向って飛び上がりそのまま高度をグングンとって行く。ベテラン一番機杉田上飛曹が時々列機を振り返ってくれる。心強い思い。高度七百米—八百米くらいで右旋回しながらさらに高度をとって行く。間もなく高度三千米くらいになった頃、菅野隊長の敵大編隊発見の落着いた声がレシ—バーに入る。 隊長機を見ると敵機の方向に機首を向けバンクを振り、二十粍の試射をしながら敵機の位置を知らせてくれる。まだ敵機影は小さい。 我が一番機杉田兵曹が手信号で「力ウルフラ ップ」全開、「OPL点灯」、空戦「フラップ」切替え、二十粍の試射を指示してくれる。 四機一斉にスロットルの発射レバーを握る。 銃ロ覆の布を破って弾丸がダダ—と飛び出す。 高度四千米をこえる。私は最初敵機発見の時、先にあがった七〇一飛行隊、四〇七飛行隊の味方機ではないかと半信半疑な気持であったがそんな気持も一瞬にして吹飛んだ。視界に入る敵機の数が余りに多く (二百機から三百五十機)蜂の大群の形容がピッタリだったからです。高度五千米をこえる敵機は呉の方向に飛んで行く。
 隊長機が敵機(四千米)を追いながら左旋回する。高度五千五百米になったと思ったら 隊長機が急降下して行く。我が一番機杉田兵曹が「ハナレルナ、ツィテコイ」の手信号を送ってくる。風防越しに左手を上げ答える。 隊長機か四千米くらいで五百米くらい下のグラマン艦爆かアヴェンジャかわからないが護衛している二十機から三十機のグラマンF6Fに向っていく。敵機との距離が五百米、三百米、二百米と詰って行く。敵機も編隊を崩さずまだ飛んでいる。距離が百五十米—百米に近づく。靑色の機体に白い星のマークが見える。さらに近づく。「OPL」から敵機がはみ出し一部しか見えない。敵機が気付き反撃態勢に移る瞬間、菅野隊長を先頭に編隊を組んだまま突擊開始。距離が五十米—二十米、敵の搭乗員の白のマフラ—が風防越しに見え る。スロットルレバーの発射把手を握る。ダダ—と二十粍四門が火を吐くと同時にF6F の右翼が眼前で吹飛ぶ。
 以上が三〇一飛行隊の菅野隊長を先頭に、杉田区隊、他区隊の第一擊でした。
後は新選組隊歌二番の歌詞通りでした。
「燃ゆる敵機は炎と化して、真澄の空に墨絵を画く。何んの物量も血をもて答う。擊ちてし止まん。擊ちてし止まん。今ぞ阿修羅の新選隊」
 その晚宿舍で「タムタム」と大声で呼ぶ我が一番機杉田兵曹。今日の空戦で離れたとお目玉かと覚悟していたら、「タム、よくやった」と煙草(光)をいただいた。杉田区隊が区隊擊墜賞に輝いたと云われ、これも一番機、空戦の神様杉田兵曹の活躍の賜物と今でも生死を共にした思い出の一コマです。(今でも笠井兵曹が二番機で飛んでいたらと残念でならない)」






笠井智一さん(杉田の列機で常に行動を共にした)の書いた杉田に関するエピソードを続ける。

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