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戦争を知る本#8「海軍主計大尉小泉信吉」(小泉信三)

小泉信三は、昭和14年(1933)から昭和21年(1946)までの慶應義塾大学塾長。太平洋戦争ど真ん中の時代に慶應義塾大学を率いた。軍や行政からの圧力を跳ね返して最後の早慶戦を行ったことで有名である。また、戦後は当時の皇太子殿下(現在の上皇様)の教育掛となり、テニスを通じて美智子妃殿下との婚約にもかかわっている。

私がはじめて小泉信吉の名前を知ったのは、今から50年前の高校生の頃。文藝春秋かなにか・・・の記事だった。当時すでに小泉信吉は鬼籍にはいっていたが、記事の内容よりも火傷のあとをのこしていながら威厳のある顔が印象に残っていた。東京大空襲のときの焼夷弾の処理で顔に大火傷を負ったことが記事に書かれていた。そして大学生の頃に神田の古本屋でこの本を見つけて購入した。奥付は昭和41年、定価400円になっている。

小泉信吉

さて、この本であるが、その小泉信三が25歳で戦死した長男信吉の残した書簡をもとに本にしたものである。

書き出しは、海軍軍事局長からの小泉信吉戦死を伝える電報である。「小泉海軍主計中尉十月二十二日南太平洋方面に於て名誉の戦死を遂げたり。取り敢へず御通知蒡々御悔み申し上ぐ。なほ生前の配属艦船部隊名等は機密保持上お漏らしなきよう致されたし。」という文面で、いきなりドギマギする。

このあと名文家として知られる小泉信三が、長男信吉誕生の頃からの成長を父の目を通して描いていく。淡々と事実を重ねる文の中に父として慈愛が伝わってくる。
(簡単に慈愛と書いたが、書くまでに他にいい言葉がないか考えた末に、やはり慈愛という言葉しかないという逡巡があった)

当時としてもかなりハイソな生活をしていた小泉家である。のびのびと成長していく信吉の姿が書かれているが、それも父の目線である。船や軍艦に興味をもっていく信吉の様子が細かく書かれている。信吉は、中学生でありながら一人で丸善に行き"Jane's Fighting Ships"を注文してくる。当時30〜40円もする洋書は、「中学生が買う本としては荷が勝ちすぎたものであった」と書いた後に、今は信吉の遺物の中にあると記す。直接思いは書かれていないが、「一九三三年のもので、信吉が注文したのもこの年であったとすれば、彼れが十六の時のことである。」と綴られ、そこには息子の残したジェーン年鑑を手に思いをはせる信三の姿がうつる。ジェーン年鑑には信吉が乗艦した軍艦「那智」も載っていた。「彼れはその特色ある舷の線、烟筒、檣楼の形を歎賞した。この一冊を友として、実に彼れはいく時間の時を過ごしたであろう」
その後も、海軍に関する写真や切り抜きをする信吉の海軍熱を父の目で淡々と綴っていく。

小泉信吉は大学を出て三菱銀行へ勤め、そして予備学生として海軍経理学校へ入り、憧れの海軍士官になる。軍艦「那智」の主計士官を経て、小さな輸送船「八海山丸」の主計長として勤務する。この本の後半は、そんな信吉の家族へ宛てた手紙によって構成されている。その手紙を読むことで、家族にしか見せない信吉のお茶目で青春を謳歌している姿が浮かんでくる。そこには戦闘場面はなく、艦内での愉快なできごとやのどかな南洋の生活などが伝えられている。昭和17年10月15日、艦内の烹炊所から秋刀魚を焼く香りが匂っていることを伝えた手紙を出したあと、サンタクルーズ諸島の北方海上での南太平洋海戦で戦死している。

さて、この本には戦時中のある青年のきわめて日常的な生き様が描かれているだけである。戦争に関わる問題提起などまったくない。しかし、冷徹な目で社会を見据えていた経済学者がこのような息子の伝記を通して残しておきたいという「思い」がある。もともと私家版のみの出版だったというが、この本が広く多くの人に読めるようにのこされたことは大きな価値があると思う。

ちなみにタイトルの海軍大尉というのは戦死後に1階級上がるためである。「かいぐんだいい」と読む。


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