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杉田庄一ノート54昭和18年8月26日「被弾、落下傘降下、火傷」

ラバウル航空戦図20211022

 8月15日のベララベラ上陸作戦以後、制空権をめぐる戦いはさらに激化する。『大空の決戦』(羽切松雄、文春文庫)には当時の制空権をめぐる攻防の様子が次のように描かれている。

 「昭和18年8月当時、前線ではこんな歌が流行っていた。
 ”ラバウル快晴ブカ小雨、ブイン、バラレは弾の雨” 特にブインの対岸にある小島バラレ基地はひどかった。空襲にやってきた敵が、ブインで落とせなかった爆弾をバラレに残らず落としていくのだった。だからバラレには「航空機の墓場」といっていいほど、飛べなくなった零戦や九九艦爆、一式陸攻の残骸が散乱していた。よそでは最前線と恐れられていたラバウルも、ブインやバラレに比べれば、平和な安全地帯であった。
 ソロモン諸島のほぼ中心にあるブーゲンビル島は、北にブカ島、南にバラレ、ショートランドを指呼の位置におき、チョイセル、ベララベラ、コロンバンガラ、ムンダ、レンドバの島々と対しており、そのわずか南東にガダルカナル島がある。中部ソロモンに日米両軍の基地が交錯するように点在していたことから、ブインやバラレは敵の猛烈な空襲にさらされることになったのである。
 ブーゲンビル島の南端にあるブインには、高さ25メートルもある櫓式見張所を中心に、ジャングル地帯から海岸までのびた滑走路をもつのが第一飛行場で、この頃204空が主力であった。
 敵は島づたいにどんどん前進してくるので、ブイン、バラレ基地は連日熾烈な空襲に遭い、しかも敵の作戦は巧妙となり、次第に大胆になってきた。こちらは1日に何回も出撃するので、最後に帰るのは薄暮になることが多かった。そんなとき、いわゆる”送り狼”というやつで、こちらが帰るあとをつけて来て、着陸するところを狙ってやっつけようとする戦法だ。」

 8月15日以降、10日間の204空の戦闘行動調書をおってみると次のようになる。
 8月16日午前7時、ブイン基地上空哨戒任務に零戦19機が出撃。杉田は第五小隊二番機として飛んでいる。小隊長は、渡辺秀夫上飛曹である。同日の午後2時20分、5機の零戦が上空哨戒任務につく中で12機の零戦がブインからラバウルに帰投する。杉田は第一小隊二番機である。小隊長は、鈴木宇三郎中尉。

 8月17日午前7時、ブイン基地からべララベラ島を攻撃する艦爆隊の直掩任務に5機の零戦が出撃するが会敵せず。正午にラバウル基地からブイン基地に4機の零戦が進出。12時50分にブイン基地からべララベラ方面敵情偵察に零戦4機が出撃し、大型輸送船三隻、駆逐艦三隻、魚雷艇一隻を発見している。

 8月18日午前4時45分、ブイン基地からべララベラ島攻撃を行う艦爆隊の直掩任務に零戦4機が出撃する。1機撃墜するが、味方機の損害は大破1機、被弾1機である。午前6時、零戦4機がブイン上空哨戒任務につくが、F4U2機が来襲し小出要二飛曹が未帰還となる。正午、ブイン基地からべララベラ島攻撃を行う艦爆隊の直掩任務に零戦5機が出撃するが、上空天候不良のため引き返している。

 8月19日正午、ラバウル基地から零戦3機がブイン基地に進出。会敵せず。

 8月20日午前7時、ラバウル基地から零戦4機がブイン基地に進出。会敵せず。同日正午、ラバウル基地に零戦3機がブイン基地から帰投。

 8月21日午前7時10分と12時30分に二回にわたってブイン基地からべララベラ島攻撃を行う艦爆隊の直掩任務に零戦4機が出撃する。空戦するも撃墜なしと記録されている。

 8月22日午前8時55分、ラバウル基地から零戦8機で駆逐艦上空哨戒任務に着く。B 24が1機来襲、交戦するも撃墜に至らずと記録されている。8月17日から8月22日まで杉田は搭乗していない。

 8月23日午前4時30分、ラバウルからブイン基地に零戦16機が進出する。杉田は第三小隊二番機として搭乗。小隊長は、羽切松雄飛曹長であった。同日午前9時5分、ブイン基地から零戦8機がべララベラ島方面の敵機掃討任務に出撃している。F4Uを4機撃墜(不確実2機)と記録されている。午後2時、2機の零戦が第二次攻撃隊帰着時の上空哨戒任務についている。送り狼対策か。

 8月24日午前8時、基地上空哨戒任務に201空の零戦3機と合流する形で零戦1機が任務についている。手塚八郎上飛長が空中接触で墜落戦死した。同日9時30分頃、ブイン基地から零戦24機がべララベラ島方面の艦船攻撃に向かう艦爆隊の直掩任務につく。杉田は第二中隊第一小隊二番機として出撃。小隊長は、羽切松雄飛曹長である。F4Uが4機現れ、交戦。さらに帰途10数機の敵機と交戦している。2機撃墜(不確実2機)と記録されている。

 8月25日午前4時50分、251空の零戦16機とともにブイン基地から零戦16機でビロア入泊敵艦攻撃に出撃。高角砲の熾烈な攻撃を受けたが全機帰着している。午前8時40分、上空哨戒任務に零戦8機が出撃するも会敵せず。12時50分、大型爆撃機が6機現れ零戦15機が追撃に上がり護衛のF4Uを1機撃墜した。杉田は、追撃隊の第三中隊第一小隊の三番機として搭乗。小隊長は、羽切松雄飛曹長であった。このあとすぐ午後2時30分と3時30分の2回にわけて、E作戦部隊上空直掩任務に零戦が8機ずつ出撃する。杉田は第二次隊の第一小隊二番機として出撃した。小隊長は羽切松雄飛曹長である。損害も戦果もなし。

 8月26日朝4時55分、早朝からE作戦部隊上空直掩に251空の零戦8機とともに零戦4機が出撃している。敵機を認めたるも雲中に逃がすと記載されている。この日の午後2時15分、敵機がブイン上空に現れる。PB2Yが15機その他小型機10数機と記録されている。この出撃で、海中没入2被弾機3、渡辺秀夫上飛曹が顔面重傷、杉田庄一二飛曹が軽傷とだけ記載されている。しかし、杉田は軽傷ではなかった。

 この日の杉田墜落の様子が『大空の決戦』(羽切松雄、文春文庫)に記載されている。
「八月二六日の昼下がり、空襲警報によって二〇四空の零戦十数機がわれ先にとブイン飛行場を発進していった。警報が遅かったのでこちらは十分な高度がとれず、不利な体勢から空戦になり、見るべき戦果も挙げずに、こちらは二機の未帰還を出してしまった。その中の一機は被弾と同時に搭乗員がパラシュート降下、飛行場の端からわずか三、四〇〇メートルのジャングル地帯に降下した。私が着陸コースに入ったとき、上空から樹海の濃緑色に真っ白い傘体がはっきり浮かび上がって目撃された。
 整備員数名がわれ先にと救助に向かい、ジャングルの中に消えていったが、いずれもわずか二、三〇メートルしか入って行けず、途中から引き返してしまった。こうなると重装備でなければ入っていけない。そこで整備分隊士を先頭に、十数名のにわか救助隊を編成し、それぞれ鉈や鎌を手に懐中電灯の光とコンパスを頼りに、ジャングルの奥深く進入していった。しかし、なかなか落下地点に到着できず、空中からの案内を得て、数時間の捜索により、夏の日も沈みかかった薄暮にようやく探し当て、命からがら這い出して来たのであった。搭乗員・杉田庄一二飛曹は重傷を負い、しばらく戦列を離れた。」

 このとき、杉田の小隊長機としてよく一緒に飛んでいた渡辺秀夫飛曹長も顔面を撃ち抜かれ重傷を負っている。渡辺飛曹長は、204空開隊時から隊を引っ張って来たベテラン下士官で、士官が不足していたこの時期に羽切松雄とともに貴重な存在であった。渡辺飛曹長は、敵銃弾により右目と鼻を撃たれながらもブイン飛行場に不時着した。『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)にこのときの様子を神立氏が渡辺氏にイタンビューした談話が載っている。
 「そろそろ来るかな、と思いながら機首を引き起こして右後ろを振り返ったら、相手の飛行機を見ないまま、突然、バンバンッという大きな音がして、同時に目の前が真っ赤になり、爆風を受けたみたいに全身に激しいしびれを感じました。
 痛みは全然ないんです。それで、はじめは飛行機が燃えているのかと思って、脱出しなくてはと風防を開けようとしたんですが、体が言うことを聞かず、手に力が入らなくて開けることができない。そこで初めて、これは体に弾丸が入ったなと思いました。
 天皇陛下万歳なんて思わない。ただ、父母兄弟が、私がここで死ぬのがわかるかなと、チラッと考えました。すると、上昇の姿勢にあった飛行機がスピードを失い、機首をガクンと落として錐揉みに入りました。あわてて操縦桿をとろうとしましたが、手足がまったく動かないんです。だんだん気が遠くなって、そのまま意識を失いました。」
 ラバウルの野戦病院で右目摘出と顔面整形手術を受けたが生き延びる。8月30日、これまでの輝かしい功績により、草鹿任一南東方面航空艦隊司令長官から個人感状と軍刀を授与された。

 杉田は顔面と両手を大火傷を負っていた。特に手は癒着するほどの火傷であった。ブイン基地からラバウル基地に運ばれて来た杉田の様子を204空電信員だった加藤茂氏が見ていて、『私はラバウルの撃墜王だった』(本田稔ほか、光人社)に次のように記載している。
 「そのうち杉田兵曹や渡辺兵曹も、輸送機でラバウルに帰ってきた。それも白衣で担架に横たわり、いつもの元気いっぱいの杉田兵曹とはまったくちがう。かなり重傷らしい。指揮所ちかくに運ばれてくると杉本丑衛司令がかけより、かぶさるように
 『おお、杉田、よくやったなあ、傷は、大丈夫か・・・・・』
と、おろおろと涙を流さんばかりに見舞っていた。杉田兵曹は全身に大ヤケドをしたとかで、顔や体じゅうを包帯だらけにし、目だけ出している。そして、われわれの顔を見ると無言のまま、目に大粒の涙をうかべていた。
 杉田兵曹はブイン上空の迎撃戦で被弾し、たちまち火をふいた愛機から落下傘で脱出し、海上に落ちた。さっそく味方救助艇が救助に向かい、まもなく彼を発見したは、杉田兵曹は救助隊に拳銃を向け、敵か味方か、といって救助に応ぜず、隊員が手をやいたとのことであった。」
(石野注、当時の杉田は二飛曹、渡辺は飛曹長)

 加藤氏の記述では、「海上へ墜落、救助艇で助けられる」ことになっているがこの部分は伝聞であり、火炎で喉も火傷をしていることが考えられ声を出すこともできなかった状況で「敵か味方か」と誰何できるとは思えない。ラバウルでは勇猛果敢な杉田の活躍は知られており、それに合わせて作られた武勇伝だと思われる。

 ちなみにまだ航空戦が激烈になる前、加藤氏が戦友とともにラバウルの慰安所をのぞいてみたら開けっ放しの部屋で杉田がベッドの上であぐらをかき、右手で女をだき、左手でサカヅキを持って女に酌をさせていたという武勇伝も記述している。このエピソードもちょっとステレオタイプという気がする。

 杉田と渡辺飛曹長は9月13日に特設病院船天應丸に転院し、内地に移送され、舞鶴の海軍病院に入院することになる。ラバウルでの杉田の戦いは終わった。




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