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杉田庄一ノート70 昭和19年10月特攻隊直掩任務

 昭和19年10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊『敷島隊』の5人が出撃した。いわゆる特攻隊の公式な初出撃であるが、その日は他にも3隊の特攻隊が出撃しており、合計18機の特攻出撃で空母1隻撃沈、3隻大破、3隻損害という戦果をあげている。

 しかし、『敷島隊』が特攻を命ぜられたのは10月20日で、敵発見の報で出撃命令が出たのは21日である。その日は、敵を発見できず引き返している。その後、連日出撃するものの悪天候で引き返し、実際に突入したのが25日であった。『敷島隊』以外にも『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』が編成され、目的は敵空母にしぼられていた。『敷島隊』は引き返したが、セブ島基地の久納好孚予備中尉(法政大学出身)率いる『大和隊』は21日に出撃し、実際に突入をしている。『敷島隊』が初の特攻隊とされているのは、公式に報道するために写真やフィルムとして記録されたためである。何度も引き返していたことは報道されなかった。メディア戦略として『敷島隊』出撃の場面は使われたのだ。

 『敷島隊』の隊長に命ぜられた関行男大尉は、もともとは艦上爆撃機の搭乗員で201空には爆装零戦による攻撃の指導者として赴任してきていた。前述したが、敵艦戦への攻撃を速度があり動きの良い零戦で行おうという戦術が考えられ、201空で杉田らが反跳爆撃を訓練していた。しかし、ダバオ誤爆事件で零戦が破壊されて少なくなり、しかも反跳爆撃の訓練で死亡事故が重なり、爆装零戦の戦術は頓挫していた。関大尉も中途半端な身分ではあったのだ。リーダーとして申し分ないし、度胸もすわっている。菅野が内地へ行ってなかなか帰ってこない、ようやく帰ることになったが台風で沖縄に足止めになっている、そのような状態でフィリピン沖海戦はアメリカ軍に押され特攻隊を出さねばならない状況になる。公式報道のためには海軍予備中尉の率いる隊でなく、海兵出身指揮官の出撃場面が必要ということで関大尉に白羽の矢がたった。

 そもそも、特攻隊の人選には、「妻帯者でなく、長男でもなく、自ら志願する者」という条件があったが、関大尉は結婚したばかり、すでに父が死んでいて一人っ子だった。命令を告げた猪口参謀が関大尉とのやりとりを残している。
 「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ」と語りかけたが、関は「いや」と言葉少なに答え、猪口は「そうか、チョンガーじゃなかったか」と言った。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めた。・・・『神風特別攻撃隊』(猪口力平・中島正、日本出版協同)

 特攻隊による戦果は十分すぎるものだった。近づけるまで近寄って爆弾を放つよりも搭乗員が最後まで操縦することでの命中率が高かったこと、積載燃料がいっしょに爆発することの相乗効果などさまざまな要因が考えられているが、最小限の犠牲で最大の効果があがってしまったのだ。そのため、当初はこの海戦での空母に限定した攻撃としていたのが、基地航空隊は翌年の1月まで特攻攻撃を続ける。さらに全艦艇に対する全軍特攻へと変化していくことになる。特攻攻撃は確実に戦果をあげ、連合国軍、特にアメリカ海軍の兵たちに大きな恐怖を抱かせることになる。通常攻撃では2.7%の命中率が特攻では27%だったという分析がある。打つ手がなかったところに究極の打つ手が生じてしまったのだ。それはまだ先のこと。

 そんな25日があった翌日、菅野分隊がバンバン飛行場に寄り道をしたあとでマバラカット西飛行場に戻ってくると、基地全体の空気が重苦しいのに気づく。整備員に聞くと、前日に『敷島隊』が出発したという。笠井氏は、菅野大尉のこれまでの言動から、われわれ菅野分隊が行くはずだったと察する。この思いは杉田も含め、分隊全員に共通していた。夕方、呼び出しがかかる。
 「内地より空輸してきた者、集合!」
 玉井副長から命令がある。
 「今日来た搭乗員のうち、いまから名前を呼ぶ5人は明日特攻機の直掩でニコルス基地へ行ってもらう」
 菅野大尉を指揮官に5名が選出された。杉田も笠井氏も名前が入っていた。菅野大尉は続けて言う。
 「われわれはいままで内地に行って、少し休養をとってきた。そのぶんこれから張り切って戦わなければならない。俺の隊からは体当たり機は出さない。かわりに、特攻直掩の出撃には落下傘を使用しない。」

 菅野大尉は、内地に戻っている間に、特攻が計画されているという話をつかんでいたらしい。内地にいるとき、夜中に笠井氏のところにきて「もし体当たり攻撃に出撃するならお前もいっしょに連れて行くぞ」と唐突に言ったこともあった。おそらく杉田とも何らかのやりとりもあっただろう。そして、思い悩んだ末に自分なりの結論を導き出していたと思われる。行くなら自分が率先して行く、部下は連れて行かない・・・おそらく、そのような結論だったに違いない。フィリピンに帰ってすぐ、菅野の隊から特攻要員を出せと言われたが「自分は特攻に行くが、部下は出さない」と突っぱねたらしい。以下は、『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)からの抜粋である。

 「特攻の記録を見ると、関大尉以下の最初の神風特別攻撃隊の四隊二十二名のうち、菅野が隊長だった戦闘三〇六飛行隊の隊員は三名で、あとの若桜隊、葉桜隊も含めると六名いる。しかしこれらの隊員は、いずれも飛行隊長の菅野が飛行機を取りに内地に帰って不在の間に指名されたもので、フィリピンに帰ってからの菅野は、自分は特攻を申し出たが部下からは出さないようにしていたらしい。
 特に菅野が嫌ったのは、角田少尉が遭遇したようなケースで、本人の意思もそれ相応の心構えもなしにいきなり特攻に指名するような、搭乗員の気持をまったく無視したやり方であった。だから菅野は、セブに飛行機を空輸して帰ったとき、部下の中から特攻要員として誰かを指名するようにいわれたが、断固として拒否した。
 上層部も、その抜群の技術を惜しんで菅野を特攻に出す気はなかったので、部下を出すくらいなら自分が行くという菅野の申し出を受けるわけにはいかず、あきらめざるを得なかったということがあった。」
 「角田(つのだ)少尉のケース」というのは、たまたま空輸中の零戦が故障し緊急着陸した基地でちょうど特攻隊を編成中で、欠員一名を補う形で特攻を命ぜられたという角田少尉の体験である。

 さて、「落下傘を置いて行け」という菅野の言葉には「特攻には出さないが、特攻精神で戦え」という気持ちが込められていた。その次の日、10月27日から菅野隊は特攻隊の直掩任務につく。笠井氏はこっそりと落下傘を持ち込んでいる。落下傘はクッションを兼ねていて、直に操縦席に座るとお尻が痛くなるのだ。

 特攻攻撃は、特攻機とその援護と戦果確認をする直掩機で編成する。特攻機が着実に特攻ができるように、敵戦闘機を追い払うとともに敵艦からの射撃にも身を挺するようにともに突撃を行わねばならないので、直掩機も多くは撃墜されてしまった。しかし、その頃の菅野隊は無双の強さをもっていた。

 10月27日、北海道から本州、九州、沖縄、台湾を経て前日に基地入りした北方部隊を中心に特攻隊が編成されセブ島に向かう。これはそのまま特攻出撃ではなく、セブ島から出撃する準備のための移動だったと思われるが、その時の護衛についた。以下、『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)から抜粋する。

 「二十七日、この新編特攻隊は菅野大尉にひきいられて、マバラカットを出発してセブ島に向かった。北方部隊から来た十三機も含めて十七機の零戦が、途中、マリンダック島上空にさしかかてグラマン戦闘機十六機と遭遇して激しい空戦となったが、その十二機を撃墜し、味方は一機失ったのみという大戦果をあげた。
 この戦闘は、ほとんどが北海道からやって来たばかりで、しかも実戦経験の少ない混成部隊であり、高度も敵が上方にあってこちらが圧倒的に不利であった。その不利な状況にもかかわらず、劣位から立ち上がって果敢な戦闘をいどんだ捨て身の菅野の戦法が功を奏したもので、まれな例としてこの戦闘は横空(横須賀航空隊)が出した戦訓集にも取り上げられたという。
 「この隊には、出発時に脚の上がらない機があったので、指揮官菅野大尉はすぐに帰投するよう信号したのであるが、その機の搭乗員は指揮官を拝んで、ぜひ連れて行ってくれ、とついてきた。まもなく敵と遭遇して激しい空中戦となり、菅野大尉はその機を守るためにひどく苦労させられた、と帰着後に話していた。」
 このときの菅野について飛行長中島少佐は『神風特別攻撃隊の記録』の中でそう述べているが、空戦ともなると自分の身を守るだけでも精一杯なのに、故障機に乗った部下をも守った菅野のやさしさもさることながら、戦さ慣れしたその余裕には驚かされる。ただ菅野には彼のためなら命を捨てることも辞さずという杉田庄一上飛曹ら歴戦の猛者がついていたから、後方に敵機がつくのを気にすることなしに戦えた」

 杉田が鍛えた笠井氏らは確実に腕をあげていた。編隊空戦では敵なしの活躍を行うことができるまで育っていたのだ。このチームなら空戦に負けないという自信を菅野はもっていた。だから特攻をもちかけられても拒否することができたのだろう。

 その日の午後遅く、急降下爆撃機『彗星』3機による特攻隊『忠勇隊』が出撃する。菅野らも直掩として出撃する。目標上空まで無事達し、それぞれが目標を定めて突入する。笠井氏の記述から抜粋する。
「特攻の三機を護衛しながら、われわれは命令どおり目的の第一地点に向かった。私はこの日、菅野大尉の三番機だった。特攻機との高度差千メートル上空の、やや前方を飛行する直掩隊形で高度四千〜五千メートルを飛びラモン湾に向かった。見張りを厳重にしながら敵の防空戦闘機が来ないことを祈った。
 第一地点に到着して、特攻一番機の山田隊長が様子を探るために周囲をぐるーと緩旋回で索敵をはじめたが、敵艦はいない。直掩隊は各自チャートは持っているが、どこを飛んでいるのか正確に把握できないので、偵察員が乗る特攻隊の行くほうにとにかくついていった。(『彗星』は操縦員と偵察員の二人乗り)
 しばらくすると、特攻の三機が”だーっ”と進路を変えて南下して行った。「敵艦がいなかったらレイテ湾に行け!」との命令だったので、「あ、これはレイテに向かっているな」とすぐ理解できた。
 高度六千メートル付近をさらに約四十分ほど飛行した。南下するにしたがって雲量が増え、レイテ湾らしき所に着くと辺りは層雲にすっぽりと覆われ下方の様子が見えなかった。上空を警戒しながらしばらく雲上飛行をしていたが、特攻の一番機が小さな切れ目を見つけその中へ”ばーん”と突っ込んで行くのを見た。特攻機は五百キロ爆弾を抱いている「彗星」だから降下スピードが速い。「これはまずい」と直掩隊は遅れないようにフルスロットルをかけて彼らについていった。みるみる高度は下がる。酸素マスクを外し、過給器などの装置を高高度から切り換えた。
 層雲の下に抜けると辺りは暗かったが、レイテ湾が敵上陸部隊や水上部隊の艦船で埋めつくされているのが見えた。間もなく敵艦の砲が一斉にピカピカと閃光を発して火を吐き、われわれはすさまじい弾幕につつまれた。敵の対空砲弾が編隊の近くでつぎつぎに炸裂し、凄まじい炸裂音とともに振動が伝わってくる。高度が下がってくると機関砲の曳行弾も飛んできたが、その中を躊躇なく特攻の三機もわれわれ直掩もまっすぐに急降下していった。
 私は特攻機が敵機に撃墜されないよう、彼らの楯となり上に被さるように一緒に飛びながら特攻の一番機を追った。山田隊長の一番機は大型の敵艦に真っすぐ狙いを定めて突っ込んでいき、「体当たり」と思った瞬間、戦艦の向こう側に突き抜け、”どーん”と上昇して行った。「あれ?どないしたんや?特攻やめたんかな」と思ってついていったら、高度二千メートル付近で急反転し、ふたたびその戦艦に狙いをさだめて急降下を敢行、激しい対空砲火をかいくぐり、一番機は敵艦にみるみる近づいていき、私の目の前にみごとな体当たり!
 「やったぁ!」と思った。
   ・・・『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)

 3機の突入と艦が炎上するのを確認してから直掩の5機は凄まじい対空砲火をあびる。狂ったように赤や白の弾が打ち上げられる中をひたすらかいくぐって退避する。5秒以上同じ姿勢で飛べない。まっすぐ飛んでいるように見せながら横すべりで対空砲火を避ける。少しでも操作を誤れば、海に突っ込んでしまう。プロペラの気流で海面から飛沫があがるほどの低空で逃げまくる。戦域を離脱し、基地に帰り着く頃には夜になっていた。暗闇の中を勘にたよって着陸する。戦闘中なので夜間照明がされなかったのだ。
 直掩隊5機が無事着陸すると、「お前ら、よく帰って来たな!あの対空砲火はすごかった、弾がおいかけて来たからな」と、笠井氏たちは菅野大尉から誉められる。アメリカ艦艇はVT信管による対空砲火をおこなっており、実際に弾が当たらなくても近接すると爆発する仕組みだった。これまでの対空砲火とは違っていたのだ。

 その後、菅野隊長は中島飛行長に報告に行く。
「特攻の三機は戦艦、巡洋艦、輸送艦にそれぞれ突入するも、猛烈な対空砲火の中で沈むところまでは確認しておりません!
すると、中島飛行長が
「最後まで戦果を確認せずに帰ってくるとはどういうことだ!本当に体当たりしたのか!」と言った。
(なにお!、あのすごい対空砲火の中をやり直しまでして突っ込んだ特攻隊に対して、本当に体当たりしたのか・・・だと)
 この言葉にカチンときた菅野大尉は思わず腰の拳銃に手がいき、力がはいってしまった。そのまま拳銃を誤発させてしまう。ダーンという音にその場にいた者はみな驚くが、菅野大尉は平然と報告を続け、敬礼をして帰る。そのとき笠井氏に語る。「ちょっと肩を貸してくれ、足が痛くてな」
 菅野大尉は、平然としてはいたが自分の足の指を撃っていたのだ。目標が沈んだかどうかの確認だけが大事であり、どのように突入し最後を迎えたのかに関心がない飛行長に菅野大尉は頭にきていた。
 飛行機の搭乗員は、いざというときのために拳銃を腰につけている。このいざという時というのは、敵と戦うためというよりも助からない時に自分の頭を撃ち抜くためであり、第一次世界大戦時から軍用機パイロットはたいがいピストルを携帯していた。

 もうひとつ、直掩隊を行なっていた時の菅野大尉のエピソードがある。翌々日の29日、次の特攻に使うから零戦を置いていけと言われ、直掩隊のメンバーはセブ基地からマバラカット基地まで96式陸攻を改造した輸送機で帰ることになった。直線で600km離れている空域は、すでにアメリカ軍の制空権下にあった。もう少しでマニラだというところでアメリカ軍のP-38の編隊と遭遇する。P-38といえば、山本長官の事件の時と同じだ。杉田はどう思っただろうか・・・。輸送機の機長は懸命に逃げるが、P-38からの執拗な攻撃を受ける。機銃弾も命中し出した。撃墜されるのは時間の問題、機長が「もうダメです、覚悟してください!」と叫ぶと、菅野大尉が「馬鹿野郎、どけえ!おれが操縦する」と言って操縦員を引きずりおろし、かわって操縦桿を握る。はじめて操縦する輸送機だったが、かまわずいきなり高度を下げて山や谷を這うような飛行を行う。菅野大尉の操縦技術は練習生の時、あまりに飛行機を壊すのでデストロイヤーとまで言われながら極めたものであり、輸送機で戦闘機まがいのスタントを行う。敵機もあぶなくて近寄れないような低空を右に左にと飛び続け、海面に出るとプロペラで海面をたたくような低空飛行をする。やがて島影が現れ、滑り込むように砂浜に胴体着陸をした。すぐに全員が飛び出し、ジャングルに逃げ込んだが直後に追って来たP-38によって輸送機は銃撃を受け炎上した。マニラから120km離れたルバング島だった。

 数日を経てマバラカット基地にもどると、菅野大尉は特命によって内地に戻される。11月に入ってすぐであった。



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