見出し画像

杉田庄一ノート52昭和18年8月「コロンバンガラ島の戦い」

 8月に入ると、ムンダ方面の戦いは悪化していった。ガダルカナル島が落ち、ルッセル島が落ち、レンドバ島が落ち、ムンダの戦闘もジリ貧になり、地上部隊は戦線を整理し、コロンバンガラ島に移動して敵を迎え撃つ方針をとる。一月ごとに連合軍が一つずつ島を押さえていくペースだった。陸上部隊を支援するためレンドバ島、ムンダ、コロンバンガラ島をめぐる日本軍の輸送船団の動きが活発化する。航空部隊も連日ブイン基地からレンドバ島方面やコロンバンガラ島の陸上部隊を支援するための航空作戦や船団護衛に出撃する。しかし、連合軍も黙ってはいない。航空機の数が整ってきており、日本軍艦船、陸上基地、航空基地への攻撃を連続的に行うようになってきた。補充の整わない日本軍では苦戦を強いられるようになっていく。 

 コロンバンガラ島は、ニュージョージア諸島の北西にあるほぼ円形の島である。周囲は60キロメートル、直径20キロメートルで中央に火山(ソロモン富士と名付けていた)がある。南部の海岸にある平坦な野原にビラ飛行場があり、緊急用として使われていた。ヤシ林が植林されていて開戦前はドイツ人の開拓やイギリス委任統治で洋館なども残っていた。ヤシ林の奥は、じめじめしたジャングルとなっていて日本軍はこの中に海軍陸戦部隊を配置していた。感染症、デング熱、マラリアが蔓延する過酷な環境であった。コロンバンガラ島の海軍陸戦隊を指揮してしていた予備士官、福山孝之氏が手記を書いている。

 福山孝之氏は、東京大学を昭和18年2月に卒業した後、海軍予備少尉に任官し、横須賀鎮守府第7特別陸戦隊(横七特)の第一中隊第一小隊長として4月にコロンバンガラ島に配置された。コロンバンガラからブーゲンビルへと続いたソロモン最前線での海軍陸戦隊の戦いを『ソロモン戦記 最悪の戦場 海軍陸戦隊の戦い』(福山孝之、光人社)にまとめた。

  ソロモン諸島では陸軍だけでなく海軍の陸戦隊が戦国の出城のように各島嶼に配置された。海軍陸戦隊は、海軍に属しながら陸上戦を専門とする部隊で、アメリカの海兵隊のような役目をもっている。日本では西南戦争当時からその都度作戦に応じて艦隊乗組員で編成されていたが、1932年に常設部隊として制定された。歴史は浅く、また、艦隊主流の考えから士官は概ね大学卒業者による予備士官で構成され、兵も戦時召集された年長者が多く、ある意味、捨て駒的な編成であった。『ソロモン戦記 最悪の戦場 海軍陸戦隊の戦い』(福山孝之、光人社)に、次のように記されている。
 「ラバウルに来て十日後、私は銃隊の第三小隊長(隊員五十人)となった。しかし隊に行ってげっそりした。下士官は小隊付き一人が現役(召集兵でない職業軍人)で、分隊下士官四人は中年の応召者である。また一般列兵は、応召の古兵と現役である徴兵がそれぞれ数人、残りは現役とはいうものの十七歳以下の志願兵ばかりであった。
 私はこの隊を持つように下命された時のことを忘れ得ない。中隊長が私を紹介した。小隊付きの号令で皆一斉に私に敬礼した。が、驚いたことに、足はだらと曲がったまま、銃の持ち方もバラバラ、肩はずんなりと下がり、おおむね猫背、眼は漠然と前方を見つめているだけなのだ。
 陸戦隊といえば、館山で落下傘部隊の横一特(横須賀鎮守府第一特別陸戦隊)のきびきびした動作を見て、ひそかに驚嘆した私だが、あまりの違いに眼を疑った。だが、そんな選り抜きの兵は昭和十七年はじめに底をつき、あとの陸戦隊は、編成のたびごとに質の低下をまねいていたのだ。・・・もっとも、彼らにしてみれば、姿勢もあまりよくない、眼鏡をかけた小柄の予備士官に出会って、”頼りない小隊長”だと思ったかも知れない。
 いってみれば、皆いやいやながら南洋まで連れて来られた者ばかりである。なかにはガダルカナル、ツラギの生き残りや、ミッドウェイで乗艦を失った兵員の転用もある。これらは防諜上絶対に内地勤務させないという軍の方針の犠牲者である。運が悪ければ、死ぬまで何回でも南洋の果てに出された。彼らの目にはあきらめの色がみえた。また志願兵は、母の膝下が忘れられぬものとみえて、皆寂しい顔をしていた。」

 連合艦隊の指揮下で航空作戦に参加している204空も、1日に何度も出撃をしなければならない戦いの日々に入っていった。杉田は8月初め、下士官搭乗員が不足していたためか小隊の一番機つまり編隊長として飛ぶことが多かった。その後は下士官の補充もあり、基本的には渡辺秀夫飛曹長の編隊に入ることになった。
 渡辺秀夫飛曹長は、大正9年福島県出身で丙飛予科練2期。昭和18年3月、千歳空から204空に転勤してきた中堅の戦闘機搭乗員である。杉田の良き先輩で、多くの空戦をともに戦っている。こののち8月26日に杉田は被弾し火傷を負うが、渡辺飛曹長は同じ戦闘で顔面を撃たれ重傷となる。その後、顔面復元手術を受け昭和20年6月に輸送部隊である1081空に復帰する。戦後は役場に勤め、平成14年に死去した。『零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌』(神立尚紀、光人社)に古武士のような写真とインタビュー記事が載せられている。

 さて、この頃、ブイン基地へは連日昼間爆撃があり戦死者も出ていた。夜も隊員を眠らせないように単機での爆撃が重ねられていて、そのような中で翌日早朝の出撃に備えての夜通しの整備が行われた。整備員も疲労困憊状態になる。8月になると204空は総力戦の様相を示すようになってきた。以下、204空の動きを『戦闘行動調書』と『ラバウル海軍航空隊』(奥宮正武、朝日ソノラマ)からひろってみる。

 8月1日、南東方面軍は零戦延べ62機、艦爆16機で三回のレンドバ泊地攻撃を行い、輸送艦数隻を撃破、敵機9機を撃墜する。指揮官は空母『龍鳳』の大島大尉である。204空では、朝4時35分からの1次攻撃隊と11時50分からの2次攻撃にそれぞれ参加し、二回合わせて15機の零戦が出撃している。
 杉田は第一次攻撃のとき第三小隊一番機(編隊長)として、また、第二次攻撃のときは第二小隊三番機(羽切松男飛曹長編隊長)として、二回出撃している。第一次、第二次ともに敵戦闘機と交戦をしており、戦果は協同撃墜2機(うち不確実1機)であった。
 また、別動隊が4時30分からと7時10分から二回のブイン上空哨戒任務を行っており、二回合わせてやはり零戦が15機出動している。この二回とも羽切松男飛曹長が指揮官になっているが、羽切飛曹長は午後に行われたレンドバ泊地の第二次攻撃にも参加しており、この日は三回も出撃をしている。
 杉田の二番機であった大原亮治は機体不調のためか第一次レンドバ攻撃の時「引き返す」と記録されているが、7時10分に発進したブイン上空哨戒任務の二直にすぐに搭乗している。このときは連合軍機は現れなかったが、昼頃になって20機以上のB24と約40機の戦闘機が基地上空に現れる。第二次のレンドバ攻撃隊が出撃したあとで、おそらく基地に残っていたのが二人だけだったと思われるが、田中利男二飛曹とともに2機で追撃に上がっている。やはり、この日三回目の出撃となる。
 この日の戦闘行動調書を見ると、204空は大規模な基地攻撃を受けているにもかかわらずレンドバ島方面へ午前、午後と二回も攻撃と戦闘をおこなっている。この日は撃墜された零戦はなかったが、被弾あるいは故障という記録がされており、零戦も損傷していることがわかる。

 8月2日、ブイン基地上空哨戒任務とラバウルからブインへ行く輸送機の直掩任務と船団上空哨戒任務の3つの戦闘行動がとられている。ブイン上空哨戒任務は、朝6時からの第1次12機と午後2時15分からの第2次16機の二回行われている。杉田は第1次哨戒時には第三小隊一番機、第2次哨戒時でも第四小隊一番機として編隊長を務めている。この日は終日敵と遭遇しなかった。

 8月3日、日本軍はムンダの戦線を縮小し、兵力の大部分をコロンバンガラ島へ移動を開始する。地上戦闘は一段落ついたということで南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将はブインからラバウルへ戻る。204空は、朝5時45分からブイン基地上空哨戒任務に13機が上るが、敵の攻撃はなかった。

 8月4日、朝5時からブイン基地上空哨戒任務に8機が上がる。また、5時30分から別動隊第一次8機が船団護衛任務に出撃し、第二次8機が8時頃に交代する。杉田は第一次隊の第二小隊一番機(編隊長)として飛んでいる。2機がラバウルからブインへ移動、6機が基地上空に現れた敵追撃、7機がラバレから発進して11時頃に船団護衛任務、1機がブインからラバウル帰投と記録されている。
 この日、敵機70機がムンダ地区に来襲し、零戦隊と交戦になる。25機を撃墜、4機自爆と報告されている。204空は上記のようにフル稼働しており、他の隊が交戦したと思われる。

 8月5日、朝7時40分からブイン基地を発進し8機で船団護衛任務につく。杉田は二小隊一番機(編隊長)として飛んでいる。別動隊として4機がバラレ上空哨戒任務についている。

 8月6日、レカタに敵機約130機が来襲する。ほかにもショートランドにも16機が来襲している。ショートランドでの空戦では敵機を15機撃墜し、零戦1機が未帰還となっている。
 204空ではブイン基地上空哨戒任務に二直であたっている。第一次隊は朝5時に発進し、6時に帰着、敵と遭遇しなかった。第二次隊は、引き続き7時に発進。7時46分に24機の敵戦闘機と遭遇、交戦している。このとき、杉田は第一小隊三番機(渡辺秀夫上飛曹編隊長)として出撃しており、協同撃墜として9機(不確実1機)として記録がある。この戦闘で第四小隊二番機の黒澤清一二飛曹が戦死している。
 この日はバラレ基地上空でも7機が早朝哨戒任務についていて、F4U 10数機と交戦、3機撃墜の報告がされている。また、午後になると6機が『津軽』の上空哨戒任務についている。
 夜間、コロンバンガラ島に駆逐艦四隻による輸送が行われたが、ベラ湾北口付近で敵の駆逐艦六隻、魚雷艇、航空機の集中攻撃を受け、駆逐艦『荻風』、『嵐』、『江風』(かわかぜ)の三隻が失われ、『時雨』が損傷を受けた。ブインから航空機による支援攻撃が計画されるが、基地南方広範囲にスコールが発生し、発進ができなかった。

 8月7日、5時40分に16機の零戦でブイン基地を発進し駆逐艦哨戒任務につくが、目的地についても輸送隊を発見できず、コロンバンガラ上空でF4Uを10〜20機を発見するも交戦せずにブインに戻っている。戦闘行動調書の第一小隊(羽切松男飛曹長編隊長)三番機に杉山庄一二飛曹の名前があるが、杉田の記名間違いであろう。
 午前11時、艦爆隊12機がレンドバ港に入泊している敵艦船への攻撃を行う。零戦48機による直掩が行われるが、204空からは8機が参加している。レンドバ上空では、隼15機、251空の零戦8機、251空の零戦16機とともにアメリカ軍のP-40(2機)、F4F(4機)、F4U(4機)、P-38(8機)と空戦を行っている。日本軍もアメリカ軍も陸軍機、海軍機入り乱れての空戦だった。204空は戦果も被害もなしと記録されている。
 午後3時、ブイン基地上空に現れた敵機を追撃するために零戦7機が飛び立つが、敵を見失っている。同じく午後3時、ブイン上空に別の飛行機(機種不明、大型ダグラス機と書かれている)が現れたらしく、同時刻に別の零戦8機で追撃に上がっている。零戦隊はフアロ島とテヨイセル島の半ばまで追って協同撃墜している。杉田は、追撃隊の第一小隊(楢原憲政上飛曹編隊長)二番機として参加している。

 8月8日、午前9時頃零戦16機で出撃、ショートランド付近を哨戒しているが敵に会わず引き返している。杉田は、第二小隊(渡辺秀夫上飛曹編隊長)三番機として飛んでいる。

 8月9日、午前7時ラバウルからブインに零戦3機で進出するも天候不良で引き返している。コロンバンガラ島に敵機約170機が来襲したが、日本軍機による阻止はなかった。天候不良で飛び立てなかったのだろう。

 8月10日、レンドバ島への航空撃滅戦と記録されている。12時30分に零戦16機が出撃し、天候不良のため予定コースを変更して北方迂回直線にて進みムンダ上空で11機のP-39と遭遇し、2機撃墜(不確実)して午後2時40分に帰着している。杉田は参加していない。この頃、天候不良の影響をしばしば受けている。

 8月12日、早朝5時50分から零戦4機でブインからレンドバ上空を敵状偵察に出て、大型輸送船1隻、中型輸送船1隻、小型輸送船数隻、高速魚雷艇数隻を発見している。敵戦闘機2機哨戒中とも記録されているが、空戦は行っていない。
 10時にブイン上空に敵爆撃機、B24が24機、P-39が14機、艦載機15機が現れ、零戦26機で邀撃に上がる。1時間ほど追撃し、B24を2機協同撃墜、P-39を2機撃墜(1機不確実)、艦載機2機撃墜(1機不確実)の成果をあげ、ベラレガに帰着している。杉田は、第五小隊(渡辺秀夫上飛曹編隊長)三番機として戦闘に参加している。
 この日の敵攻撃により、地上で20機以上が破壊されてしまう。1日としては最大の地上被害であった。 

 8月13日、午前8時30分にブインを16機の零戦で出発、哨戒任務を行ったが、会敵せず1時間で帰着している。杉田は第二小隊(渡辺秀夫上飛曹編隊長)三番機で出撃している。
 12時40分にはレンドバ方面敵機撃滅戦に参加する。レンドバ方面敵機撃滅戦には他隊も参加しており、総勢で零戦31機となっている。204空はムンダ上空で2機のP-39と4機のP-40と空戦を行い、P-39を1機撃墜している。杉田は第二小隊(渡辺秀夫上飛曹編隊長)の三番機として出撃している。
 また、この日の日没後、97艦攻六機が超低空でガダルカナル島の泊地に進入し、輸送船団三隻に魚雷を命中させている。ブインにいた艦攻部隊は制空権があやふやになったこの頃、昼間での攻撃はできず、もっぱら早朝、薄暮、夜間に攻撃が限られていた。

 8月14日、午前8時45分にレンドバ方面へ攻撃する艦爆の直掩で零戦16機が出撃している。レンドバ上空では3機のP-39、4機のF4U、6機のP-40と交戦している。戦果はないが、被害もなかった。杉田はこの日は出撃せず。

 8月15日、連合軍は防御の固いコロンバンガラ島を飛び越えてベララベラ島南端のビロア地区に上陸する。日本軍はムンダから部隊を引き上げ、コロンバンガラ島に兵力を集中しており、連合軍司令部は上陸戦で被害が大きく出ると想定し、迂回することにしたのだ。
 『ソロモン戦記 最悪の戦場 海軍陸戦隊の戦い』(福山孝之、光人社)によると、ベララベラ島には日本軍は部隊を置いておらず、ウィルキンソン海軍少将率いる第三水陸両用部隊は、戦闘らしいものがないまま上陸する。コロンバンガラ島は三方を敵に囲まれた形になる。コロンバンガラ島に集結していた日本軍部隊は取り残された形になった。ムンダから引き揚げてきた部隊なども合わせると、約1万1千名にもなったが、ほとんどの兵はジャングルの中の洞窟や壕に隠れて過ごしていた。このあと8月後半から9月にかけて、アメリカ軍は、島の南東部に1日2万発もの砲弾を打ち込み日本軍を追い込み、撤退を余儀なくされることになる。
 敵拠点を一つ一つ潰していくのではなく、防御の強い拠点を「蛙飛び」のように飛び越して進撃するアメリカ軍の作戦が展開される。飛び越された拠点に砲撃をしかけ、輸送路を絶つ。日本軍は物資などに困窮し、兵力も整わず自然に無力化されていく。このような「蛙飛び」作戦は、その後も島嶼の基地に対して継続して実施された。最終的には最大の拠点であるラバウル基地をも飛び越していくことになる。
 連合軍のベララベラ島上陸に対して日本軍の航空部隊は、零戦140機(述べ、いずれも)、艦爆36機、陸攻23機、水上機20機をもって4次にわたる反復攻撃を行う。巡洋艦、駆逐艦、輸送艦などに被害を与え、24機の敵飛行機を撃墜した。日本側の損害は17機である。

 204空では、艦爆隊直掩で3回の出動をしている。第一次は、鈴木中尉、島田中尉、羽切飛曹長が中隊長となって24機。第二次も鈴木中尉、羽切飛曹長が中隊長で16機。第三次は羽切飛曹長が中隊長で8機である。3回もの出撃で、羽切はぼやきながら出発するが、この時の攻撃で空戦になり3番機の渡辺清三郎二飛曹を撃墜される。羽切飛曹長は、「新潟県出身の威勢のよかった渡辺は、わたしがもっとも頼りにしていた男で、わたしの指揮のミスが彼を死なせてしまったことに、今でも責任を感じている」『ラバウル空戦記』(第204海軍航空隊、朝日ソノラマ)の中で述懐している。

 『ソロモン海「セ」号作戦』(種子島洋二、光人社)の中で、当時となりのガノンガ島にいた第一輸送隊長の種子島少佐は、8月15日のコロンバンガラ島の様子を次のように記述している。
「八月十五日の朝、すぐ対岸のベララベラ島の方から、砲声と爆音が鳴り響いて きたので、これはただ事ではないと思って、丘の上から遠望すると、目の前の海峡をアメリカの駆逐艦が一隻、通過するのが見えた。
 この白昼に、ブインからわずか一五〇キロの海面に現れるとは、なんとも大胆な奴だ、と思いながら、急いで「敵駆逐艦見ゆ」の電報をブインの司令部あてに打たせた。
 しかしその朝は、ブインの司令部は駆逐艦の一隻ぐらいの騒ぎではなかった。
 米軍は、十五日の朝、輸送船二隻と巡洋艦、駆逐艦などの十数隻で、六〇〇〇名の兵力を ベララベラ島の南端付近に上陸させたのである。この島には、わが軍は北の端に、一個の分隊の陸戦隊員の対空見張兵を派遣しているほかは、なにも配備していなかった。
 米軍は、ニユージョ—ジア島のつぎに、コロンバンガラ島をぬかして、このべララべラ島へ蛙跳び作戦をおこなったのである。つまり、コロンバンガラ島で、ふたたび佐々木支隊と力闘をつづけることは、かえって日本側の術策に乗って時問をかせがせ、その間にブ—ゲンビルの防備を固めさせることになると判断して、その裏をかいてベララベラ島に上陸したのであった。そうすれば、コロンバンガラ島の後方を遮断して、これを労せずして自然に立ち枯れさせることができるのである。
 この戦法は、米軍がその後の反攻作戦に何度も繰りかえして使ったもので、上手の碁打ちのようなものであった。はたして、わが方のガノンガ島とコロンバンガラ島の輸送ルートは断ち切られたばかりでなく、ガノンガ島の正面に米軍の魚雷艇が動きはじめたので、この基地は早晩、封鎖される恐れがでてきた。
 私は、エミュー・ハーバーの出ロを魚雷艇に押さえられる前に、入江の中の舟艇基地を他へ移そうと考えて、調査隊を出して二日がかりで探しまわったが、ほかに適当な入江がみつからなかったので、ついに意を決してガノンガ島をでることにした。


 コロンバンガラ島には、高射機銃陣地が作られ、地上部隊も結集していた。あえて米軍はここを避け、ベララベラ島へと進軍したことは前記した。厳しい戦闘を避けても、無視しておけば補給のない日本軍は自滅することをガダルカナル島での戦いで米軍は経験していた。自然消滅である。

 山本五十六が亡くなった後、このようなソロモン諸島での戦いに、連合艦隊司令部はどのような戦略方針をもっていたのであろうか。打つ手はつぎつぎとつぶされ、戦線を後退していくしかないのに、戦力の逐次投入を続けているという状況である。南東方面軍、そして、204空も先の見えない出撃を繰り返していた。8月15日、戦線は一段と後退した。

 同日、連合艦隊第三段作戦命令が発令される。(原文はカタカナ)
当分の間主作戦を南東方面に指向し、航空作戦を主体とし、陸軍と協同して敵の進攻兵力を撃砕し、我戦力の充実を待つて攻勢に転し、邀撃帯を逐次推進して要域を確保する
・中部『ソロモン』要地は概ね所在兵力を以て敵進攻戦力を撃破し、極力持久を策する、此の為に所用の期間有力な航空兵力を此の方面に集中する」(南東方面作戦
・航空機又は潜水艦を以てする敵の東部ニューギニア及び其の東方島嶼基地に対する増援補給を遮断し、又同方面沿岸に策動する敵魚雷艇等を掃蕩して我連綴補給の安全を図る(ニューギニア方面作戦)
・敵時航空兵力を集中して東部ニューギニア方面敵航空基地を攻撃し、又航空兵力の撃滅を策す

 勇ましい言葉が並んでいるが、戦線を整理するための命令であった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?