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杉田庄一ノート33:昭和17年10月ラバウルへ

 昭和17年10月、第6航空隊(後に204航空隊)に配属された杉田は木更津基地からラバウル基地にむかう。この時期、杉田はようやく戦闘機専修課程を終えたばかりで、個人資料はあまりない。しかし、所属した第6航空隊がミッドウェイ作戦後にあわただしくラバウルに出ていく時期であり、小福田晧文氏の「指揮官空戦記ーある零戦隊長のレポート」や島川正明氏の「島川正明空戦記録」に詳細な記録が残されている。これらを参考に杉田の動きを追ってみたい。

 小福田晧文(てるふみ)氏は、海兵59期で海軍航空隊の戦闘機搭乗員、隊長として活躍し、海軍航空技術廠飛行実験部で戦闘機「烈風」の開発や「反跳爆撃」の研究を行った。戦後は航空自衛隊の司令官を歴任し、退官する。その後は、技術廠にいたということで海軍航空機の開発に関する文筆活動を行った。1995年(平成7年)7月29日に86歳で逝去されている。
 杉田の初陣時、小福田氏は第6航空隊(後に204航空隊)の飛行隊長であった。また後日、杉田が201空で「反跳爆撃」(スキップボミング)の訓練をすることになったときに、横須賀から指導者としてセブ島にやってきたのも小福田氏である。映画「ゼロ戦燃ゆ」では、小福田氏にあたる役をあおい輝彦が演じている。

 昭和17年3月31日、杉田は大分航空隊で96艦戦による戦闘機専従の練習生教程を終了、同年4月6日付けで木更津に基地をおく第6航空隊に転勤する。第6航空隊はミッドウェイ作戦後に、同島に進出し基地航空隊となることが決まっていた。同基地にはパイロット120名と零戦が60機が定数として在中し、来るべき進出に向けて訓練を行っていた。杉田もミッドウェイに進出する要員になっていた。
 5月、ミッドウェイ作戦に島川正明氏(54期操練)などベテランらが参加する。別途、杉田等の若手搭乗員は輸送船でミッドウェイに向かっていた。しかし、ミッドウェー攻略が失敗に終わり、参加していた第6航空隊所属機はすべて失われ、木更津基地に戻り立て直しを図ることになった。そのような時期、8月に小福田氏は第6航空隊の飛行隊長に任ぜられる。

 ミッドウェイ攻略を失敗にしたため日本海軍は大幅に戦略を変更せざるを得なくなる。しかし、8月7日にはアメリカ軍は速攻でガダルカナル島に上陸を果たす。戦略上、ガダルカナル島を押さえることは極めて重要である。日本軍も即時、最大兵力を投入し、ガダルカナル島をめぐっての激戦が展開されることになる。このため第6航空隊も、ガダルカナル島の戦いを支援するためにラバウルに進出する。ここから小福田氏の「指揮官空戦記ーある零戦隊長のレポート」(小福田皓文、光文社)によって話を追ってみる。

 「八月上旬ごろの第六航空隊は、パイロット、および飛行機の数だけは、かなりそろっていたが、いちばん肝心のパイロットの練度はまだまだ未熟で、練成中のものがほとんど大部分であり、第一線戦闘部隊のレべルにはほどとおいものであった。実戦はもちろん、「空母」 の経験のないものが大部分を占めていた。
 しかし、事態は、そんなことをいっているときではない。とにかく、火のついたソロモン方面へ、たとえ一機でも、一日でも早く、救援が必要なのである。そこで、未熟者のための一部指導要員をのこし、実戦にたえ得る二十名の精鋭を選び、先発隊として、急遽、ラバウルに進出させることがきまった。
 指揮官には、戦闘機隊長である私がなった。はじめの計画では、空母による輸送ということであった。が、空母も急には都合がつかないから、零戦隊十八機を率いて、日本から島づたいに、南半球ラバウルまで行け、ということになった。
 当時はまだガダルカナル方面が、日米最大の激突の場となり、「零戦の墓場」といわれるような修羅場になるなど、だれひとり予想もしていなかった。が、私は内心、今度という今度は、絶対に生きて帰れないだろうと、ひそかに心に決するところがあった。」

 とりあえず2個中隊18機の零戦と案内役の一式陸上攻撃機(ここには2名の予備パイロットが乗った)の先発隊は木更津から硫黄島、サイパン、トラック、ガビエン、ラバウルへと洋上長距離飛行で向かった。ミッドウェイ海戦後は、飛行機もベテラン搭乗員も少なくなっており、前線への補充が急務であった。
 後発隊としてミッドウェイ攻略部隊に加わった搭乗員やダッチハーバー攻撃部隊に加わった搭乗員、そして前線に初参加する若手搭乗員は、96艦戦や零戦で基礎訓練を行いながら出発時期をまっていた。杉田もこの若手搭乗員の一人であり、前線を経験している先輩たちからみっちりと指導を受けていた。
 ここからは「島川正明空戦記録」(島川正明、光人社)を参考にすすめる。島川氏は、昭和14年佐世保海兵団入団、第53期操縦練習生で杉田の先輩にあたる。この時期から343空まで先輩搭乗員として杉田とともに過ごす。

 10月に入り、ようやく第6航空隊の後発隊も空母「瑞鳳」に便乗しラバウルに向かうことになる。隊長は、宮野善治郎大尉である。横須賀港を出発した後、若手は母艦上で発着陸に関する座学をしながら目的地に向かう。2個中隊(18機)のうち3分の2以上の搭乗員が発着陸の経験がなかった。しかし、すでに敵基地からの哨戒圏内に入っており、実際の訓練は行われていない。
  10月7日、カビエン北方150マイルから発艦しラバウルまで洋上飛行で向かう。発艦経験のない搭乗員がほとんどということで機の重量を減らすために、増槽タンクの燃料搭載量を半分以下の150リッターにし、使用時間も1時間と指示される。
 午前10時、発艦。発艦後50分、積乱雲でおおわれたニューアイルランド島が見えてくる。若手はまだ編隊飛行に慣れていない。小隊の中での編隊ものめりすぎたり遅くなったりで整わないまま増速して次第に密集隊形になって雲の中に入っていく。ようやくニューアイルランド島を越え、増槽タンクから燃料の切り替え時期だ。島川小隊の3番機の庄司(二飛)機は、切り替えがうまくいかず高度を下げ着水・・・着水はうまくいったが、その後行方不明になる。ラバウルに着くと他にも細野(三飛曹)機と川上(二飛)機が到着しなかった。雲中での失速あるいは接触で墜落と判断される。島川氏は、「零戦の搭乗経験も浅く、大型編成による未経験の編隊飛行、くわえての雲中突入、これらの悪条件がかさなっては無理もなかったのかもしれない。やはり搭乗経験のすくない者にとっては無理だったようだ。」と述べる。戦闘前の零戦での移動中にすでに3機が失われることになった。訓練期間が短縮され零戦に乗っての本格的訓練は戦場についてからという方針になり、杉田ら若手搭乗員の技量はまだまだ未熟だった。
 先発隊と後発隊がそろったわけだが、下士官兵の宿舎では先発隊の先輩下士官が酒に酔って日本刀を抜いて暴れる出来事があり、寄せ集め部隊のせいなのか、ミッドウェイを引きずっているのか、殺伐とした嫌な気分であったと島川氏は書いている。ようやくの思いでラバウルに着いたのにこのような雰囲気では杉田らの若手は緊張の局地にあっただろうなと思う。

 最終的にラバウルから東南200kmのブカ島に集結し、ここを零戦約80機からなる第6航空隊の前進基地とした。

 実はミッドウェイ海戦後の補充が必要なのはアメリカ軍にとっても同様であった。ミッドウェイでの戦いで主に活躍したのはグラマンF4Fワイルドキャットやブリュースターバッファローなどのやや時代遅れの航空機で、一番活躍したのは急降下爆撃機であるダグラスSBDドーントレスだった。ミッドウェイ海戦での空戦や離発着事故で多くの艦載機や搭乗員たちが失われていて、補充が必要だったのだ。そして、日米の補充の違いが以後の戦いを決定的なものにする。以後、アメリカ軍は圧倒的な数の新型機と訓練を終えた民間人からの大量の志願パイロットたちを順次投入していく。日本軍の補充は、予科練を繰り上げて前線に出した搭乗員とようやく数をそろえた零戦だった。この頃、翼端を短くしてスピード向上をはかった零戦32型が投入されたが21型より航続距離が短くなっており、広範囲に展開するガダルカナルをめぐる攻防では「使えない」と現場では敬遠されてしまう。

 10月11日、水上機母艦や駆逐艦などで構成される艦隊がガダルカナル島に対する重火器の輸送・支援のため出動する。10月13日、栗田健男中将を司令官とする第二次挺身攻撃隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う。この時期のアメリカ軍は相当ダメージを受けたうえに補給も来ず、日本軍が残していった食糧・物資で耐えたという記録がある。第6航空隊は、ブカ島からガダルカナルの日本軍輸送部隊の上空直掩に出かけた。小福田氏の「指揮官戦闘機ーある零戦隊長のレポート」(小福田皓文、光文社)では下記のように記述されている。

 「昭和17年10月11日、私たちの第六航空隊(第204航空隊と改名)は、零戦全力をもって、早朝から夕方まで、各直に分け延べ約八十機で、輸送部隊の上空を直接護衛した。幸いにして、この輸送は、みごとに成功した。しかし、零戦隊は、重大な犠牲者を出したのである。
 ガダルカナルの揚陸地は、敵軍の至近の場所なので、到着時刻は夜間とした。したがって輸送艦隊が、いちばん敵の攻擊を受ける時期は夕方、敵地に近づいたころである。そこで上空護衛は、夕方ごろの最後の直に重点をおくことになった。
 だが、 困ったことに、夕方暗くなるまで艦隊の上空にいると、戦11機隊は夜間帰投の航法がむずかしい。とくに、夜間着陸誘導の設備のない前進基地なので、結局、タ方没後の直衛隊は、駆逐艦のそばに着水し、飛行機は捨てて、パイロットだけを助けるといぅ計画が立てられた。そのため、最後の上空護衛隊の零戦は六機とし、ベテランのパイロットばかりをそろえた。ところが、日が暮れるまで、なるべく長く上空に頑張って、艦艇の上空をまもり、 日が暮れたら海上に着水というこの考えは甘かったのである。
 上空4000メー卜ル付近で、薄暗くなったときは、低空海面付近は真っ暗で、海面付近の髙度判定はまったくできないといっていい。そのため、さすが選り抜きのベテランパイロット たちも、着水時の高度判別ができず、海面に激突、あるいは失速落下し、六名のうちニ名即死、 ニ名重傷の被害を出してしまった。しかも、この日、昼間の上空護衛のべつの零戦隊三機は、帰途、悪天候の中で、三機とも行方不明となってしまった。
 結局、この日は、合計五名の戦死、ニ名の重傷、零戦九機を失うという、戦關機隊にとってさんざんな厄日になった。しかも、じつに皮肉なことに、わが輸送艦隊の上空には、どうしたことか、一日中、一機の敵機も姿を見せなかった。わが方のひとり相撲で、まったくの空振りに終わってしまった。
 戦争というものの無駄と空しさを考えさせられるー日であった。とくに、この日戦死した五名のパイロットたちは、内地から有力な増強戦力としてやってきて、まだ数日しかたっていない、大事な戦力であり、頼りとした部下たちである。その中には、数少ない士官パイロットの久保中尉や、至宝的な歴戦の勇士相良兵曹長、また下士官
パイロット最古参のべテラ ン岡本ー等飛行兵曹などがふくまれていた。
 私は、その悲報を耳にしたとき、彼らのこの悲運を悲しむとともに、前途に横たわる戦況のきびしさと、わが部隊の運命を予告されたような暗い気持に沈んだ。」

 計画の無謀さは明らかで大失態の作戦であった。第6航空隊は、ラバウル着任後にすぐ、アメリカ軍との直接の戦いはないまま、事故によってベテラン搭乗員が5名と零戦9機が失われたのだ。さんざんなスタートであった。

 この10月11日の輸送船団護衛任務には杉田も参加している。島川氏の記述によればその日の搭乗割編成は次のようになる。
 「一直:ー番機田上健之進中尉(海兵68)、ニ番機杉田庄ーニ飛(丙3)、三番機渡辺清三郎ニ飛(丙3)。
 二直:一番機相根勇一飛曹長(乙5)、二番機河上繁登一飛(丙3)、三番機平野重夫ニ飛 (丙 3)。
 三直:中隊長兼第ー小隊長川真田勝敏中尉(海兵67)、ニ番機大正谷宗市三飛曹(乙9)、 三番機加藤正男ニ飛(丙3)、第二小隊長森崎武予備少尉(予備7)、二番機島川正明一飛 (操53)、三番機中野智武一飛(丙3)、第三小隊長岡崎正喜ー飛曹(操38)、ニ番機竹田彌一 飛(丙2)、三番機加藤好一郎ニ飛(丙3)
 四直:中隊長兼第一小隊長宫野善次郎大尉(海兵65)、ニ番機岡本重造一飛曹(操31)、三 番機尾関行治一飛曹(操32)、第ニ小隊長久芳一人中尉(海兵68)、ニ番機鈴木軍治一飛曹(乙7)、三番機倉内隆ニ飛曹(操45)。
 一直、二直は、輸送船団の位置がガダルカナルから遠く離れているため、敵機来襲の公算がすくなく、したがって列機は士官をふくむ訓練を兼ねた哨戒任務にあたることになった。
 そして、三、四直と直ナンパーが増えるにしたがい、敵機の来襲予想が大となるため、実戦体験者の多くを編成にくわえたようである。これは編成表に記したクラス別を見ても察しがつくと思われる。
 かくして一直の発進が午前七時、爾後、二直、三直とつづき、最後の四直は、日没後までの哨戒任務となる。前日に、宮野大尉がこの人選をきめ、みずからの手で黒板に書き込んだものである。
 四直の列機は、鈴木一飛曹をのぞいて、宮野大尉にとっては三空時代の上司と部下の関係にあり、気心の知れた優秀な古参のパイロットたちであった。」

 杉田は、搭乗割に選ばれたものの一直の二番機ということで訓練を兼ねての参加であった。四直の飛行計画はかなり無理があったようで、宮野大尉は慎重にメンバーを選んで自ら隊長として率いたのだが、前述のように悲惨な結果になってしまう。島川氏は次のように述べている。

「ガダルカナル島ちかくで日没まで哨戒し、ブカまで帰投することは、当時の単座機にとっては、かりに充分な夜設準備がなされていたとしても無理だった。(一時期、月明を利用しての戦闘機による攻擊計画があったように聞いたが、取り止めになった)
 たとえ三百マイル以上の夜間飛行を充分こなし得るパイロットがいたとしても、雲一つない月明ならともかく、戦闘後、しかも変わり身の早いソロモンの気象条件下にあっては、や はり不可能ではなかろうか。」

 ラバウル進出時の事故と無理な船団護衛任務での事故とでラバウルにきて一週間あまりで12機と8人のパイロットが失われることになった。

 その後も10月はガダルカナルへの揚陸任務を行う日本の水上艦への護衛のために出動を行うが、アメリカ軍のB17爆撃機によるブカ基地への爆撃によって地上での犠牲者が出る。10月13日には、よりアメリカ軍に近いブイン基地に進出する。
 島川氏はベテラン搭乗員として連日、出動するが、杉田ら若手はまだ攻撃陣には入れてもらえず基地での訓練を行う。たびたびB17による爆撃が行われ、迎撃にあがってもなかなか墜とすことができない状態がつづいていた。
 撃たれてもすぐには堕ちないタフさがアメリカの軍用機に共通していた。日本の軍用機は防弾タンクなどを装備しておらず簡単に火災が起きてしまうのと対照的である。一式陸上攻撃機はすぐに火災を起こすのでアメリカ軍からは「ワン・ショット・ライター」などと揶揄されていた。
 また、グラマンなどのアメリカ軍機の戦法もこれまでのように格闘戦に引き込まれることをさけ、一撃離脱に変わっていった。アメリカ軍のパイロットたちはどんどん腕をあげており、開戦時のような日本機が有利のような状況が確実に変化していく。日中戦争時から続いていたベテランの格闘戦のわざだけではスピード重視の戦いでは通じなくなっていくことになる。
 同じ時期に252空の所属で零戦で戦っていた宮崎勇氏は、「帰って来た紫電改」(宮崎勇、光人社)の中で次のように述べている。
 「ガダルカナル島をめぐる攻防戦は、くりかえし行われたが、日本軍にとっては思うように進まず完全に行きづまってきた。さしもの零戦にとっても、むずかしい戦いになった。
 とくに、米軍のF4F戦闘機が編隊空戦で向かってくると、零戦はしばしば苦戦に追い込まれた。『編隊空戦』は、252空が特訓を重ねたうえでラバウルに派遣されてきたはずだったのではあるが、実戦ではなかなか、それを生かせない。
 『二機の単位(ペア)を崩すな』と注意されて出撃するものの、実際の戦闘では、ともするとバラバラに動いてしまう。
 というのも、空戦で全体のペースを決めるのは、やはり支那事変以来のベテラン搭乗員である。歴戦の勇士が、自分の経験を生かして単機で格闘戦をして、敵を撃墜しようとする傾向が出てしまうのである。
 海軍航空隊の得意技だった『ひねりこみ』という技術も、場面によっては、空戦の障害になったのではないだろうか。これは、宙返りをする途中で機体をひねって、グルーッとまわるべき円形を途中でカットするような形で敵機の後ろから切り込んでゆく戦法である。
 このワザは、ひところ、大きな威力を発揮したので、その訓練を徹底的にやった。それが体にしみこんでいるから、『ひねりこみ』をやる単機単位の攻撃になってしまう。
 戦闘機乗りの『気性』というか、独立心の強い、いわば一匹オオカミかたぎの戦闘機乗りが、当時はとくに多かった。それが『個人技』につながり、チームプレーにはなじまない・・・という傾向にもなったと思う」
 宮崎氏は、杉田とほぼ同じ時期にラバウルに着任した丙2予科練出身者で、その時期の前線でのベテランと新人の間にながれていた空気をこのように記述している。ベテランたちはこれまでの勝ち戦とは違い、飛行機も搭乗員もどんどん失われていく消耗戦の中でとまどっていたに違いない。若手予科練出身者は、訓練期間を短縮して戦闘機自体の操縦にも完熟していない。戦法も個人技から編隊空戦に変わってきた。戦局も航空機の進化も戦術もフェイズの転換期であった。

 11月1日、海軍と陸軍の兵制度の統一が行われ、呼称が変わることになる。杉田は10月31日付で1飛(一等飛行兵)になり、1日後の11月1日付けで飛長(飛行兵長)に昇進した。また、伝統ある操練(操縦練習生)も丙種予科練と名称を変えることになり、多くの操練出身者の不評をかった。なぜ、「丙」なのかということだ。当時の成績は甲乙丙でつけられていたので、「丙」イコール「C」評定と想起されるからである。



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