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杉田庄一ノート26:「強風〜紫電〜紫電改」その2

 「強風」から「紫電」への企画は、海軍からだされたものではなく川西航空機からのものであった。昭和16年12月開戦と同じ頃に、川西航空機本社では戦局の検討とこれに対応する次期航空機の開発について会議が行われた。川西龍三社長、前原謙二副社長、橋口義雄技師長、菊原静男設計課長が参加者である。川西社長の父、川西清兵衛は1代で川西財閥を作り上げ、中島知久平とともに「飛行機研究所」を設立する。中島とはトラブルがもとで分かれて独自に川西機械製作所(後の川西航空機)を作った。川西龍三は29歳で父から会社を譲り受け、おもに海軍の水上機を専門として航空機製造にあたっていた。その人となりは「零からの栄光」(城山三郎)に取り上げられている。川西龍三は太平洋戦の開戦に伴い会社として国に貢献したいと考え、元海軍航空技術廠長・前原謙治(海軍中将)を副社長に招聘したところであった。
 今後の戦局を読み有効な機種を探ろうという討議で出て来た案は三つに絞られた。社長と副社長は日本が今後も戦略的な侵攻を行う必要があるということから艦上攻撃機案、橋口技師長はこれまでの大型機製造の経験を生かせる「二式大艇」の陸上機への転換改造案、そして菊原技師が水上戦闘機だった「強風」を基地防衛のための局地戦闘専門の陸上機改造案であった。議論の末、一番若い菊原の案が採用される。「紫電改入門」(碇義朗)には次の様に記されている。

 「菊原は自信があった。社長たちとの首脳会議の前、菊原の家に井上、小原、馬場、高島といった生きのいい若い技師たちがあつまり、酒をくみかわしながらとびだしたのが、この案だった。彼らは例によって、何でもあたらしいものに異常な関心を示す癖を発揮し、すでに峠の見えていた「強風」にかわる、はじめての本格的な陸上戦闘機の夢について熱心に語った。つまり、みんな戦闘機をやりたがっていたのだ。」

 注目したい点がいくつかある。この話し合いがされたのは、開戦直後であり、まだ零戦が無敵であった時期、つまり局地戦闘機の必要感が現場に生まれる前であることだ。また、戦闘機をつくりたいという若い技師たちの夢はわかるが、三菱重工と中島飛行機と川崎航空機といった航空機製造会社が莫大な先行投資を必要とする戦闘機製作を占めていたところにチャレンジすることになるということ。そして、海軍からの試作要求に乗るのではなくブレーンストーミングのような討議から企画が生まれた点である。

 社内名称X-1、「仮称1号局地戦闘機」として開発がスタートする。まずはフロートをとって空気抵抗を減らし、降着装置を配置する。エンジンは、1460馬力の三菱「火星」エンジンよりも新開発の1800馬力超が見込まれる中島製「誉」エンジンに換装する。尾部下面にふくらみをつけて尾輪を配置する。水平尾翼はそのまま変えず、垂直尾翼の形状を前縁傾斜角をきつくした。設計変更は最小限にとどめ、開発生産の速度を最優先にした。

 最大の難関は中翼構造に降着装置を付けることであった。水上機だった「強風」はの主翼は、波しぶきからできるだけ守るために中翼構造にされていた。その結果、陸上機に転換するときに地面から主翼下面までの距離が長くなってしまうことになった。主翼を低翼構造すれば解決するのだが、機体全体の設計変更になり相当な開発時間がとられてしまう。次期の改造に回し、とりあえずは中翼構造のまま、降着装置を工夫することで解決しようということになる。着陸時に主翼に直接衝撃が加わらないことや主翼を折りたたむ構造に邪魔にならないことから、当時のアメリカ海軍機、グラマンF4Fやブリュースター「バッファロー」なども中翼で、胴体に直接降着装置が付けられていた。ただ、車輪間隔はせまくなり、飛行機が高速になって離着陸スピードも早くなってしまうと幅のせまい降着装置では耐えられなくなる。「強風」の主翼構造はもともと降着装置をつけられる様に設計されていない。20ミリ機銃も積んでいる。制約の多い中でとられたのが、二段式引き込み脚だった。従来、多くの飛行機に採用されているオレオ式の脚柱の外側にもう一つ外筒をつけて二段階で上げ下げを行うという方式だ。脚のロックは、油圧作動のポールを稼働させて行う。収納時にはいったん脚が短くなり、その後で引き込まれる。問題は、接地時にきちんとロックされることだ。設計上は問題はなくても、この脚機構は、あとあとまでトラブルを起こした。脚柱のロックがはずれなかったり、ロックがかからなかったりが頻発し、事故が多発した。
 エンジンを三菱製「火星」から中島製「誉」にしたことで胴体も設計変更した。「誉」エンジンは「火星」エンジンに比べ出力が大きくなっているにもかかわらず、直径で160ミリ小さくなっている。しかし、その利点を生かすまでの設計変更はいかせず最低限の変更にとどめた。
 20ミリ機銃を4丁にすることにしたが、主翼にその余裕がないので主翼下面に機銃ポッドをつけた。「強風」設計時から主翼構造がシンプルで強度も十分なので後からくっつけることが可能だった。また、層流翼や空戦フラップはそのまま有効な特徴として残された。

 川西航空機の航空機製造のスタイルは、「戦時の飛行機をつくる」ということだ。その点は、アメリカの航空機製造スタイルと似ている。そのために製造工程を極力シンプルにすることに設計思想をおく。どうしても飛行機本来の性能を高めようとすると製造工程が複雑になる。
 零戦はその典型だ。スピードと長距離飛行と格闘性能と相反するような万能性を追求した結果、たとえ数グラムでも重量を軽減することを追求し、桁なども強度ギリギリまで穴をあけていた。その分製造工程が増え、ギリギリの強度で設計したため、急降下など想定を超えるスピードに耐えられす空中分解した。なによりも馬力の大きなエンジンへの転換ができず、零戦は零戦のままでそれ以上にならなかった。また、同じ思想で作ろうとした三菱の次期戦闘機「烈風」は、開発が遅延し、戦争に間に合わなかった。その点、川西航空機の思想は違っていた。小さな重量軽減孔をあけるよりも工数を減らすことを重視した。構造の合理化と工数低減に務めた。
 グラマンの飛行機は「グラマン鉄工所」(と揶揄されたが、それはその無骨なスタイルだけでなく「少しぐらい撃たれても動じないタフな強度」、「生産性を重視した質実剛健な設計思想」に与えられた評価でもある。川西航空機の設計思想も当時の日本ではめずらしく同様な思想をもっていた。

 ところで海軍では、同様の戦略上の要件から「局地戦闘機」を三菱に試作開発させていた。十四試局地戦闘機(のちの「雷電」)である。上昇力と高速度で敵飛行機を撃墜することを目的として開発された。「強風」と同じ大きな「火星」エンジンを搭載し紡錘型の胴体であった。しかし、大きな胴体が影響し前方視界の悪さがあった。「零戦」から乗り換えてみるとこの視界の悪さが極端に目立ち、現場からダメ出しを出されてしまった。アメリカの戦闘機の視界の悪さから言えば同程度で問題にするほどのことでないが、「零戦」を知っている日本のパイロットには不満のタネになったと、前出「紫電改入門」の著者の碇義朗さんは述べている。

 海軍が要求して計画設計した「雷電」と川西航空機の自主制作「仮称1号局地戦闘機」が同時期に完成したのだが、「雷電」の控えとして採用され「紫電」と名付けられた。「雷電」が現場から嫌われたのに対し、「紫電」はその空戦フラップや零戦以上に開放感がある操縦席まわりが好評だった。結果として約1000機が生産された。

「紫電11型」の諸元
・乗員:1名
・全長:8.855 m
・全幅:12.00 m
・全高:4.058 m
・翼面積:23.500 m2
・最大離陸重量: kg
・エンジン:誉二一型(離昇1,990馬力)
・プロペラ:VDMプロペラ4翅プロペラ
・最大速度:583 km/h
・航続距離:1430 km/h
・上昇限度:12,500m
・上昇力:6,000mまで5分36秒
・武装:20mm機銃×4
・爆装:250kg爆弾×2



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