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杉田庄一物語 その62(修正版) 第六部「護衛」 山本長官前線視察の電報

<山本長官前線視察の電報>
 四月十三日、第八艦隊及び南東方面艦隊司令部より、ブインの第一根拠地隊、二十六航戦、十一航戦、九五八空の各司令官とバラレ守備隊指揮官宛に山本長官前線視察の連絡が無線で通知される。
「四月十八日、六時中攻(一式陸攻)二機にてラバウル発。八時バラレ着。八時四十分、駆潜艇でショートランド基地を視察。九時四十五分ショートランド発、十時三十分バラレ着。十一時中攻でバラレ発、十一時二十分ブイン着。十四時中攻でブイン発、十五時四十分ラバウル着」
という内容であった。分刻みで、滞在時間も少なく駆け足での視察激励であった。事前準備するように極秘暗号で各視察先に連絡を行ったが、米軍もこの暗号を傍受しており、皮肉なことに米軍側でもこの電報によって秘密作戦の準備を始める。
 これまでにもミッドウェイ海戦から、「八十一号作戦」「潜水艦の行動」など、米軍が暗号を解読していたことを記してきたが、かなり以前から日本軍の暗号を解読する作業は始まっていた。乱数表をもとにしたこの暗号は開戦前から米軍インテリジェンス部門によって解読が試みられている。

 日本海軍の暗号(米軍は「JN-25」の名称をつけていた)は、昭和十八年当時にはすでに電動式暗号解読機によって即時解読できるようになっていた。全文解読できていたわけではないが、穴の空いている文章くらいまで精度をあげており、日本に精通している研究者たちによって最後の穴を埋める作業が行われていた。そして、たとえ解読した内容に基づいて作戦を行う場合でも、解読したことを日本側に悟られないように偶然を装い、暗号解読によるものであることをひた隠しに隠していた。

 山本長官の前線視察についてもすぐに解読チームが動いて、その行程をつかんでいた。日本軍側は、暗号が解読される恐れは絶対ないと信じていたが、それは米軍が暗号解読についての情報を前記のように徹底的に漏れないようにしていたことによる。

 もう一つ日本側に気の緩みをあたえた要素として、四月一日に乱数表を更新したことがある。乱数表が変わると暗号解読機でも数日間は対応できなくなる 。日本軍司令部も、暗号が解読されているとは思わなかったが、それ以上に乱数表を変えたばかりであることの安心感を抱いていたに違いない。

 暗号解読については別の説もある。昭和十八年の一月にイ号第一潜水艦が米艦と交戦した後に座礁してしまう。このとき、「補足乱数表」が米軍の手に渡ったのではないかという説である。「補足乱数表」があると乱数表の改訂による変更点をより早く解読できる可能性が高くなる。

 米軍の記録によると、詳しい行程や護衛機の機数まで解読していたことがわかっている。護衛機搭乗員の一人で、戦後まで生き残った柳谷飛長は、「三十分ないし四十分おきぐらいに、視察する基地の司令あてに、ひっきりなしに無電を打っていたのが、わたしの心に一抹の不安を抱かせた」と語っている。この無電が当日なのか事前なのかは不明であるが、連合艦隊司令長官を「粗相のないよう迎えるように」という日本式の忖度が強く働いていたのではとも推測できる。

 訪問先宛の暗号電文が届くと各基地では宿舎や基地内の清掃をおこなっている。当然、基地の隊員たちはその意味を知ることになる。朝、昼、晩と空襲がある合間をぬって、基地や滑走路の大清掃を行っていれば、「どうやらお偉いさんが視察に来るらしい」と噂が出るのは当然だ。ラバウルには連合艦隊司令部が置かれている。「『い号作戦』が大成功に終わった」という文脈から、連合艦隊司令部の幹部が来るに違いないと推測ができる。「どうして最前線でこんなことをやらなければならないんだ」とぼやきが兵隊から出たという証言もある。視察の数日前には兵隊まで筒抜けだったのである。そして、最前線基地では出入りする地元住民による情報漏洩が日常的にあったことも事実である。緊張感のない極秘視察になっていたのだ。

 日本軍側の気の緩みを感じさせる最後の要素は、ブインと米軍基地のあるガダルカナル島の距離だった。この間を往復して戦闘までできる航空機は米軍には存在しないという思い込みがあった。事実、どんな米海軍戦闘機もブイン上空まで来ることはできなかった。しかし米陸軍のP38戦闘機だけは例外で、増槽をつければかろうじてこの距離を往復して戦闘時間を十分ほど確保することができた。そこまで可能性を検討したかどうかはわからないが、ヘンダーソン基地のP38戦闘機は数機しか残っていないと報告されており、懸念は無視されていた。実際には第三三九戦闘機大隊の十八機が配置されていて、急遽、増槽を取り寄せ準備に入っていた。P38による攻撃についての詳細は別に記す。

 四月十四日、「い号作戦」も最終段階に入る。この日、ミルネ湾及びラビ飛行場に対する基地航空部隊の攻撃(Y1攻撃作戦)と、同じく母艦飛行機隊の攻撃(Y2攻撃作戦)が同時に実施された。二〇四空は九時にラバウルを出撃し、ミルネ湾への攻撃を行う一式陸攻隊の直掩を行なっている。指揮官は宮野善治郎大尉、七小隊二十一機の零戦が参加した。杉田は第二中隊第二小隊三番機で飛んでいる。小隊長は野田隼人飛曹長で、二番機は鈴木博一飛曹だった。

 追撃に上がった敵戦闘機三十四機と空戦になった。野田隼人飛曹長一機、尾関行治上飛曹二機(うち不確実一)、岡崎靖二飛曹一機(不確実)、柳谷謙治飛長二機(うち不確実一)、中村佳雄飛長一機、齋藤章飛長一機、中根政昭飛長一機、田中勝義飛長一機(協同)、そして杉田も一機の計十一機の撃墜戦果だった。十四時二十分に全機無事帰着している。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、なぜ前線視察を行ったのだろう。ガダルカナル島の奪還がかなわなかった自責の念にかられブインにいる陸軍第十七軍司令官百武晴吉中将に慰問するためだったとか、「い号作戦」に奮戦した前線の将兵をねぎらうためとか、宇垣参謀長の構想に積極的に賛同したとか・・・諸説ある。最高指揮官が最前線に行くことは、それほど違和感のある行動だった。

 山本長官は、もともとはラバウルに来ることさえあまり乗り気ではなかったという。ラバウルへ行く前日、戦艦「武蔵」の長官室で残留することになった藤井政務参謀と将棋を指しながら、次のように語っている。

「僕がラバウルへ行くのは、感心しないことだ。むしろ柱島行きなら結構なんだが。味方の本陣が、だんだん敵の第一線に引き寄せられていくというのは、大局上、芳しいことじゃないよ」

「山本五十六」(阿川弘之、新潮社)

<過大な戦果報告>
 四月十七日、「い号作戦」が終わったということで、この日の午前中に各隊の幹部をラバウルの第八根拠地隊司令部に集めて研究会が開かれた。作戦経過の検証、戦果の集計、損害の分析、反省点などが話し合われた。中で最も問題とされたのが、戦闘機隊の戦力低下であった。戦果をあげてはいるが、日本軍側の損害も想定以上だった。

 実際はもっと深刻であった。相当数の戦果があったと分析をしていたが、実際の米軍の被害は軽微だったのだ。戦闘機や艦爆からの戦果報告は、実際の米軍の被害をかなり上回るものだった。

 特に毎日のように敵機と空戦を行なっていた基地航空部隊よりも、前線に出ることの少ない母艦搭乗員の戦果確認が過大になっていた。煙をはいて落ちていく米軍機をみて「撃墜」と報告しても、実際は被弾して煙を吐きながらも米軍機はそのまま飛び続けていく。日本機ならいさぎよく自爆の道を選んでしまうのだが、米国では最後まであきらめないで生き延びていることが多い。

 基地航空隊の搭乗員たちは、タフな米軍機をいやというほど見てきた。しかし、母艦搭乗員にはベテランがあまりおらず、士官も経験が少ない者ばかりで再編成したばかりだった。士官が撃墜を確認しなければ「撃墜不確実」となるのだが、敵味方が高速で飛び交う空戦の場での確認は難しく、どうしても戦果は過剰になってしまうのだ。五八二空分隊士の角田和男飛曹長は次のように証言している。

「四月七日、X作戦からラバウル基地に帰投した際、山本長官に対する母艦戦闘機指揮官納富健次郎大尉の報告を聞いて、そのあまりにも現実離れした勇ましい勝報に、これは自分が見てきたものと違う、と思いました。私は決して勝ち戦だったとは思わない。こと空戦に限れば、完全にこちらの被害のほうが大きかったのではないかと思っていたので、これでは上層部の判断を誤るのではないかと心配でした。」

「修羅の翼」(角田和男、光人社)

連合艦隊参謀長宇垣纏少将の「戦藻録」にまとめられた戦果では、「日本側が撃沈した敵艦だけでも大型輸送艦六、中型輸送艦9、小型輸送艦三、巡洋艦一、駆逐艦二、撃墜した航空機は百三十四機」だった。しかし米軍の実際の被害は、米軍太平洋艦隊司令官ニミッツ大将の次の言葉でわかる。

「彼(山本五十六)は戦争中もっとも強力な日本航空部隊を編成、まず最初に、アイアンボトム水道における船舶を、次いで、東部ニューギニアの目標に攻撃を加えた。この結果はけっして小さくなかった。駆逐艦一隻、コルベット艦一隻、給油艦一隻、輸送船二隻を撃沈し、二十五機の連合国軍飛行機を破壊した。しかし、日本は四十機の犠牲を出し、空母の第一線搭乗員の大きな損失は、日本の空母部隊の戦力をこれまで以上に大きく低下させた。」

「ニミッツの太平洋戦史」(チェスター W.ニミッツ 著, エルマー B.ポツター 著, 実松 譲 翻訳、恒文社)

 米軍は日本機を四十機墜したと判断していたが、実際の日本の航空機の損害状況は戦闘機二十五機、艦上爆撃機二十一機、陸上攻撃機十五機の計六十一機だった。米軍の判断の方がシビアだった。


<反対はなかったのか>

 山本長官の前線視察に対しては、「無謀と思える計画をだれが計画したのか、反対はなかったのか」と戦後多くの本がこのことに触れている。計画の実際の立案者は不明であるが、具体的な視察計画は南東方面艦隊航空乙参謀の野村了介少佐が立てたと言われている。当初から司令部内で反対の声が出たが、山本長官が自身で反対を押し切って遂行したとも言われている。計画を知った幹部や部下たちがなんとかやめさせようと動いたことは、さまざまな記録に残っている。しかし、それだけ多くの人に知られていたことの情報管理の甘さをも露呈していることになる。

 視察前日の十七日に、山本長官はラバウルの地上部隊指揮官である陸軍第八方面軍司令官今村均中将と昼食を共にしている。陸軍と海軍は犬猿の仲であるが、山本長官と今村司令官は古くから心を許せる友としてのつきあいをしていた。その席上で、今村は山本長官に視察の中止を進言している。

 今村は、二ヶ月前の二月十日、山本長官の視察と同じコースでブーゲンビル島南端のブインへ飛んだ際に、襲撃に遭いかろうじて難をのがれた経験があった。
 その日、今村は海軍の一式陸攻に乗せてもらい、糧秣なしで長い間戦っていた部下の将兵を見舞うためにブインへ向かう。あと十分で着陸という時に不意に米軍戦闘機があらわれた。一式陸攻操縦員の咄嗟の判断で雲の中に突っ込み、雲中で旋回を続け、かろうじて逃げおおせたのだ。山本長官が結局たどることになる受難の行程と同じである。

 しかし、この忠告にも山本長官は、そのときの海軍の操縦員の処置に満足した様子をみせたが、ブイン行きを止めるとは言わなかった。今村も戦闘機から攻撃を受けているのだが、この時の敵戦闘機はどこからきたのか、詳細は不明である。
 また、山本長官の長年の友人でもあった第十一航空戦隊司令官城島高次少将も、「狂気の沙汰」と言って任地のショートランドからラバウルに戻り、山本長官に直接会って止めさせようとしている。「山本五十六」(阿川弘之、新潮社)ではこの時のことを次のように記述している。

 「城島高次少将は、四月十三日の電報を見ると、自分の幕僚たちに、『こんな前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか。君たち参考のために言っとくが、こんな馬鹿なことをしちゃいかんぞ』と言い、山本長官出発前日の十七日、ラバウルに帰って来て、『長官、危険ですから、やめて下さい』と直接そう言ったが、山本長官は、『いや、もうあちこち通知したし、みんな用意して待ってるから、行って来るよ。あしたの朝出て、日帰りで夕方には帰って来るんだから、待ってろよ。晩飯でも一緒に食おうや』と言って、やはり諾かなかった。」

「山本五十六」(阿川弘之、新潮社)

 しかも前線視察が決まった時点では、「い号作戦」のために集められた母艦戦闘機隊がラバウル基地にまだ残っており、いつでも発進が可能だった。城島は、全母艦戦闘機隊で護衛をすると連合艦隊司令部にも申し入れもしているが断られた。十六日には母艦戦闘機隊全機がトラック島に戻された。
 また、ブインを基地とする五八二空の零戦十八機もまだラバウルに残っていたが、やはり十六日に戻されている。ブインに戻るのを二日後まで伸ばせば、わざわざ護衛機を用意しなくても十八機の零戦が護衛となったはずだ。
 第三艦隊司令長官小沢治三郎提督も、山本長官の視察に反対し、多数の戦闘機を同行させることを申し出ていた。「人間提督山本五十六」(戸川幸夫、光人社)では記されている。

「山本長官が決定をひるがえさないので小沢長官は、連合艦隊幕僚の黒島先任参謀に、『なんとか中止させるように、宇垣参謀長あたりから言わしてみてくれ』と言った。『宇垣さんでも無理でしょう』と黒島先任参謀が答えると、小沢長官はうーんと沈黙に黙り込んだが、やがて『それなら護衛戦闘機が六機なんてことことではだめだ。もっとふやさなければ・・・・・。その飛行機は俺のところからなんぼでも出すから、参謀長にこっそりそう言っといてくれ。山本長官の耳に入ると、その必要はないと言われるからな』・・・(中略)・・・宇垣参謀長はデング熱のために寝込んでいた。せっかくの小沢長官の申し出も宇垣のところまで達せず、護衛戦闘機は最初の予定通り六機と決まった。」

「人間提督山本五十六」(戸川幸夫、光人社)



 そもそも前線視察を考えていたのは宇垣参謀長だったとも言われている。ガダルカナル島攻防戦は、海軍がたてた「米豪遮断作戦」の一環として行われ、陸軍が協力する形で上陸した。その陸軍第十七軍が大苦戦を強いられたことに宇垣は大いなる責任を感じていて、撤退が決まった今、ブインに駐屯する十七軍司令部にじきじきに視察激励に行きたかった。その宇垣の思いを山本長官も察し、寝込んでいる宇垣が行けなくても自分だけでも行くつもりになっていた。

 そして護衛を任ぜられたのが二〇四空であった。米軍が傍受した暗号電報にすでに護衛機は六機とあったことから早い時期に護衛機数が連合艦隊司令部によって決められていたことがわかる。二〇四空の宮野善治郎大尉は護衛機を六機出せと言われた時に、可動機全機の二十機で出動すると進言したということが隊員たちの記憶にある。しかし、それには及ばずという司令部からの返答であった。山本長官が大切な飛行機を割くのは心苦しいというじきじきの却下であったという。

 戦後のことであるが、前述の野村了介少佐が
「自分は十八機と計画したが、ラバウルの戦闘機隊の整備が間に合わず、当日になって九機しか出せないということになり、連合艦隊司令部と相談して、ソロモンの敵も弱ったようだし、ブインには味方の零戦もいるのだから九機でもよかろうと決めた。九機が離陸後、二小隊長がエンジン故障で引き返し、列機も一緒に引き返したので六機になった」
と証言している。

 護衛は九機だったということは野村の証言以外には出てこない。残されている戦闘行動調書にも初めから六機としか書かれていないし、米軍の解読した暗号文にも六機と書かれていた。また、たとえ故障で引き返したとしても、通常一機が随伴するだけである。ましてや司令長官の護衛ということがわかっていて三機とも引き返すことは考えられない。

<引用・参考>



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