見出し画像

上越立ち止まりスポット24(黒井駅)


黒井駅は不思議な経歴をもっている。JR東日本とJR貨物、信越本線の駅であるが、ほくほく線の停車駅でもある。ここには頸城鉄道(今は頸城自動車)の創業時からの始発駅もあった。場所は少し離れているが新黒井駅と呼ばれていた。

画像1

wikiには次のように解説されている。頸城鉄道は1913年(大正2年)4月6日に設立され、後の頸城村と浦川原村(現:上越市浦川原区)となる中頸城郡北部の村々を東西に横断する軽便鉄道の頸城鉄道線は1914年(大正3年)10月1日に開業した。駅舎はインターナショナル石油直江津製油所[注 1][注 2]の外国人宿舎として使われていた通称「異人屋敷」のうち1棟を移築したもので、信越本線に面する北側に建てられた木造2階建ての擬洋風建築の駅舎南側に単式ホーム1面1線と側線などが設けられ、国鉄線ホームとの間は構内踏切で連絡していた。

画像2

私の父は、高等小学校を出ると頸城鉄道の反対側のターミナルである浦川原駅の整備工場で働き、海軍に志願した。戦後も頸城自動車で働いたので、頸城鉄道にはいろいろと思い入れはある。

異人屋敷が駅舎になったという。異人屋敷にはインターナショナル石油会社の代表として当地の石油開発を行ったエドウィン・ダンが住んでいた。他にも数名の外国人が住んでいて、そのような名称がつけられた。エドゥイン・ダンは、地域の人に愛され交流が深かった。「日露戦争がおき、出征兵士があると日の丸の旗をもって駅頭まで見送ったり、戦死者の家には香典をもって見舞ったりした。寺社、学校、病院、警察などへ寄付の要請があると名前を記帳せずに進んで出資した。石油会社は7年で閉鎖し、ダンは東京へ引っ越すが、町民村民が集まって見送った。」と「上越ふるさと事典」に記されている。

エドウィン・ダンは直江津小学校の同窓会がピアノを寄贈するときにベヒシュタインを選定した。そのピアノは今も直江津小学校に残っている。また、次男のジェームズ・ダンは直江津小学校に通ったことがあるが、その後ドイツに留学し、ピアニストおよび作曲家として活躍し、直江津小学校の校歌を作曲している。

現在の異人屋敷跡を訪ねて見た。

画像3

画像4

垣根が残っていてそれらしい雰囲気はわかる

画像5

しかし、垣根の中をのぞくとこんな感じになっている。


ところで、黒井駅には空襲をうけた記録がある。昭和20年5月5日だ。当時の記録を小林勉氏が「こんな日々があった−戦争の記録−」にこう記している。

この日は朝まで小雨が降っていたが、午前7時30分頃には止んで、しまいに雲が切れ、11時頃から晴天に変わった。・・・B29一機が、突如として直江津の上空に現れた。午前11時過ぎである。けたたましい半鐘の乱打とサイレンの音を尻目に、機体は悠々と飛行機雲を棚引かせて米山の方に去ったかに見えたのだが、大きく機首を返して再び来襲したのである。・・・信越化学のカーバイト工場を目標に、50キロ爆弾を6個同時に投弾したのである。が、工場に当たらず、近くの水田に落ちた。さらに、もう一個投下したのだが、これも工場から外れて、隣接する信越線黒井駅近くの倉庫に的中して炸裂した。・・・以下、遺族の証言・・・父・輔太郎さんは、当時54歳で、黒井駅の操車係を勤めてました。作業の都合で、転轍小屋で早昼飯をとっていたようです。弁当箱が現場に散乱していましたから。この最中、近くの倉庫に落ちたその爆風で、右胸部をえぐり取られて即死したのです。・・・そのほかにも。田んぼに出ていた坂詰竜策さん(内臓破裂)、日通黒井営業所に勤めていた石田一太さんが亡くなり、負傷も出ている。朝鮮人の徴用工も4人が負傷したとされている。県知事からの香典が出たが補償はいっさいなかったという。

画像6

別に7月15日にも機雷が約20個投下されている。直江津港をねらってそれたものかもしれない。あちこちに落とされたが、磁気機雷ということで直接爆発はおきなかった。ほぼその時に処理されたのだが、戦後35年の昭和55年7月に機雷が発見され、地域住民を避難させて処理作業が行われた。その時、私は直江津東中学校で国語の講師をしていて、避難指示の話を当事者として聞くことになった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?