見出し画像

三菱 零式艦上戦闘機 21型 A6M2(1940)

 零戦(零式艦上戦闘機)が制式採用されたのは昭和15年(1940年)である。「零」は皇紀2600年からとっている。昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたる。まだ試作戦闘機であった時には十二試艦上戦闘機という名称であった。この「十二」というのは昭和12年(1937年)の試作という意味で付けられている。

96艦戦(96式艦上戦闘機)の後継機として同じく三菱の堀越二郎技師を主務設計者として開発された。当然ながら皇紀2596年制式機だ。その96艦戦よりも20%の出力増加、長大な航続距離、500km/hの高速性、高度3000mまで3分30秒の上昇力という当時の常識を外れた海軍の要求を実現させた。速さと格闘性能と上昇力と長距離という相反するような要求を全て飲み込んだのだ。同時期の世界各国の戦闘機と比べてみても抜きん出た性能で、1000馬力時代の戦闘機としては世界屈指の名機となった。

そのために可変ピッチプロペラ、引き込み式脚、水滴型風防、沈頭鋲、胴体と主翼の一体構造、落下式増槽、超超ジュラルミンなど当時の世界最新鋭の技術を取り入れた。そして何よりも重視して取り組んだのが重量軽減であった。ネジ一本まで削れるものは徹底して削った。桁や鋼板などにも重量軽減のための穴をうがっている。完璧なまでの軽減化と空理的に全く無駄のないデザインが零戦の高性能を生んだ。

しかし、その完璧さが諸刃の刃となって返ってくる。当時の1000馬力エンジンの戦闘機は、ほとんどが数年後に2000馬力エンジンを積むように改良されていく。零戦は大馬力エンジンを積むことができなかった。1000馬力エンジンで機体も最適化されていたために構造上無理だったのだ。急降下などで機体に無理がかかると空中分解する恐れもあり、高速化にも他機についていけなくなってしまう。翼端を短くしたりエンジンをわずかに馬力アップしたりと改良を行うが、2000馬力時代に取り残されてしまう。

21型は初期型の零戦で、三菱だけでなく中島飛行機でもライセンス生産され、3000機ほどが作られた。改良された32型、22型、52型などよりも21型を好む搭乗員が多かった。それほど完璧なまでに完成された飛行機であったのだろう。日支事変から太平洋戦争の初期までは無敵の活躍をしたが、ミッドウェイ戦以降に連合軍の戦闘機が2000馬力級になってくると苦戦をなめるようになる。しかし、零戦の後継機とされた烈風の制式化が遅れたため零戦が最前線に立たねばならなかった。ようやく紫電や紫電改が出てきた時にはすでに戦争末期になっており手遅れだった。

全長 9.06m
全幅 12m
全備重量 2,410kg
発動機 栄一二型(940hp)
最高速度 533km/h(高度6,000m)
武装 20mm機銃×2 7.7mm機銃×2 30kg爆弾×2または60kg爆弾×2


三菱 零式艦上戦闘機 32型 A6M3(1943)
三菱 零式艦上戦闘機52型  A6M5(1943)

> 軍用機図譜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?